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R・リーキー 『ヒトはどうして人間になったか』(岩波現代選書)1/2

 著者リチャード・リーキーは1972年に東アフリカ・トゥルカナ湖畔で有名なホモ・ハビリス(ハビリスとは「器用な人」の意味)の化石を発見し世界的有名人になったルイス・リーキーとメアリー・リーキー夫妻の二男。人類最古の時代についての両親のいくつかの大発見をもとに、そこに自分の最新の研究成果も加えて、東アフリカにおける最古のヒト科動物の生々しい資料を一般読者向けに詳細に語っている。
 もっとも最終的な文章は共著者のジャーナリストであるロジャー・レウィンが書いているようで、そのジャーナリスティックな筆致が一般人にとって本書をとっつきやすくしている。

 第6章 古代の生活様式

 p121-2

 アフリカ南部、ホッテントットの一部族であるクン族は、狩猟採集民のほとんどがそうであるように、男が狩りをする一方で、女は堅果類や根茎類や青物など、その季節の中でいちばん美味な食料を採集している。平均的には、大人は一週間に12時間から19時間ほど働くのだが、食料を求める時間としてこれは多い時間とは言えない。少女は15歳あたりで大人の生活を始めるが、少年は少なくとも20歳になるまで大人の世界に足を踏み入れることがない。60歳に達すると彼らはふつう「隠居」し、尊敬されて余生を送る。つまりクン族の社会では、子供と老人は緊張と義務から解放されている。

 早くて15歳から労働生活が始まり、60歳には終わり、その間平均して日におよそ2時間半の労働をするというこの社会は、いったいどのような社会と考えればいいのだろうか。有限な欲求が最小限の努力で満たされる、本質的に豊かな社会という人は多いだろうが、少なくとも、たとえばホッブズが言ったような不潔で、不愉快な、欠乏している社会とは言えないのではないか。

 クン族はサバンナの木立の中で育つモンゴンゴの実を主食としていつでも採ることができる。彼らは日に平均して300の実を食べるが、それには米1100gに相当する栄養分が含まれており、同時に牛肉400g相当の蛋白質が含まれている。それを思えば彼らが私に「世の中にこれほどモンゴンゴの実があるのに、どうして(農業のように)種を蒔かねばならないのか」といったこともよく分かる。毎年、彼らは数千キロの実を集めるが、それ以上の量が、地面に落ちて腐っていくのだ。それほど彼らは「豊か」なのだ。

 p141-2

 クン族のキャンプの正確な構成人数は、場所によって違うが、およそ25人である。25がこうした狩猟採集民の大半にとって平均的な数であり、重要な数らしい。おそらく25人は、最終と狩猟の混合した独特の経済を運営する上で――適当な領域の中で互いに協力しながら食料を獲得する上で――最適な人数なのだろう。

 またこの25人のキャンプの上位にある、人類学者がしばしば方言部族と呼ぶより大きな集団は、世界の多くの異なる地域で調査してもだいたい500人程度である。部族は、技術的に未開な民族について、その社会構造を人為的な単位に分けて分析したがる人類学者が、勝手に作り上げたものではないのだ。未開人自身も方言部族を十分認識しており、帰属意識がかなり強いことが多い。その認識の表面的な印は服装とか身体装飾の様式とかいろいろあるが、なんといっても特有の言語、つまり方言である。だからこそこの500人を方言部族と呼ぶのである。

 部族の役割は、ほぼ男女同数となるのに十分な人口を構成することにあるように思われる。経済活動の基本が家族であり、採集狩猟のための基本的集合がバンドであり、部族はバンドが機能できる最小の生殖集団である。

 仮に25人のバンドでは、結婚可能な年齢に達した若い男性が適当な年齢の女性を見つける機会はかなり少ないだろうし、たとえ適齢の相手がいても、彼女はほぼ確実に近親だろう。近親相姦は人間にとって最大のタブーの一つである。となると、それを避けるための唯一の方法は、よそで相手を見つけることだ。

 アメリカの人類学者ウォッシュバンが婚姻のための基本的集団の大きさを算出したことがある。バンドの平均規模、子供の男女別出生率と死亡率を勘案し、近親相姦回避の必要度をもとにして考えた場合、結婚適齢男女をほぼ等しい割合に確保するには、何人の人口が最低必要になるかを計算したのである。もちろん答えは500となった。採集狩猟民ははるかの大昔から、コンピュータに頼ることなく正しい解答に到達していた。つまり進化の圧力という刃は、長い間に最も効率的な体系を切り取って彼ら自身に与えていたのだ。

養老孟司・茂木健一郎 『スルメをみてイカがわかるか!』(角川新書21)

 例えば絆(きずな)という言葉がある。広辞苑の少し古い(第4)版には、第一義として<動物を繋ぎとめる綱>とあり、第二義として<離れがたい情実、ほだし、係累>とある。しかし21世紀に入って以降は第一義の意味で使うことはほとんどなくなり、とくに2011年の東北大災害以来、メディア上では<離れがたい情実>が第一義となって、<押しつけの連帯感>のニュアンスがつけ加わってきた。その結果、他人とのむやみな連帯よりは自己や自家族の独立・自由を好む私にとって、「絆」は同調圧力を感じさせるいやな言葉に変化してしまった。
 この本では、こういうことが起きるのは、脳の神経細胞が、個体が生きている限りは不眠不休で働いていることの必然的結果であると説明されている。

 p167-70

 脳の神経細胞は、一見脳が休んでいるように見えるときでも、ごろ寝をしてぼんやりしているときや、ぐっすり眠りこんでいるときでさえ、活動し続けている。この神経細胞の活動を脳の自発的な活動と呼ぶ。このときの活動レベルは、積極的な活動時に比べれば、むろん低い。それでも、脳の神経細胞は本人が生きている限り完全に停止することはない。

 神経細胞が自発的に活動することの意味は、現在の脳科学でも十分には解明されていない。どうやら、脳というシステムは何もしていないように見えるときでも神経細胞がある程度の自発的な活動をしなければ十分な機能を発揮できないらしい。脳は、眠っているあいだも続けられる無意識の自発的な活動の中で、つねに内部の神経細胞の結合パターンを変更していくシステムなのだ。
 この神経細胞間のシナプスの結びつきが刻々と変更されていく中で、次第に、人間の記憶も編集・整理されていくと考えられる。

 記憶には大きく分けてエピソード記憶意味記憶がある。エピソード記憶とは、「あの時あの場所であんなことがあった」という、具体的なエピソードの記憶である。いつ・どこで・何が、という三つの要素が結びつきあった形で、過去にあったイベントが脳の中に記憶として定着することである。
 いっぽう意味記憶とは、いつ、どこで、という限定を離れて、普遍的、一般的な形で「意味」が記憶されることである。たとえば「あたたかい」という言葉を、それがいつどこで使われたというエピソードとしてではなく、その意味するところとともに記憶するのが意味記憶である。

 人間の脳の中では、さまざまなエピソード記憶が時間をかけて意味記憶に編集されていくプロセスが進行しているらしいことが分かっている。このプロセスはfMRI(機能的磁気共鳴画像法)をもちいた最新の研究によれば、10年、20年の単位で進行するらしい。

 人間は、その体験するさまざまな出来事に中に「意味」を読み取る。これらの「意味」は最初から一般的なものとして与えられているわけではなく、人生の中で出会うさまざまな具体的な出来事(その人にとってのエピソード)の中から、次第しだいに抽出されていくものである。人間の脳は、具体的なエピソードから、次第に意味を編集していく、驚くべき能力を持っているらしいのである。

 その編集のプロセスを意識したり、コントロールしたりできる人はどこにもいない。エピソード記憶から意味記憶への編集過程は、人間の意識によってコントロールされることなく、脳の中で密やかに進行している。この無意識の編集過程こそ、人間の脳の行う最も重要な機能である。この無意識の過程があってこそ、100人が一つに事象にたいして100通りの反応を起こすのだといえる。

 冒頭にあげた「絆」という言葉で言えば、私の脳の中で<(母と子を結ぶ関係性のような)動物を繋ぎとめる綱>という昔ながらの単純な意味記憶に、メディアの24時間365日災害報道大合唱というエピソード記憶が加わって、記憶が再編集されたということである。

 

杉浦明平 『小説渡辺崋山』(朝日新聞社)

 私たちが「渡辺崋山」に対して持っている高校生の受験日本史的な知識はどのあたりが平均点だろうか。江戸後期の武士であり有名な画家だったが、晩年は高野長英らとともにヨーロッパ列強との融和・通商の必要を説いた。しかしその開明性が幕府保守派の怒りに触れ、水野越前守―鳥居耀蔵らのラインによって蛮社の獄につながれ悲惨な最期を遂げた・・・。

 この受験日本史的な知識では、なぜ長英と崋山らが開国の必要を説いたのか、水野―鳥居らはなぜそこまで激怒したのかが分からない。崋山らは御時勢に逆らってひどい罰を受けたわけだが、ではいったい彼らは生きた御時勢とはどういうものであったのか、時の将軍・老中・大名はどんなことを日常考え、農民・庶民はどんなものを日ごろ食べ、しゃべり、大商人と上層武家のあいだではどんな駆け引きが毎日あったのか・・・。

 文庫版では8巻本になるというこの長編『小説渡辺崋山』では、文化・文政・天保時代の日本のほとんどすべての階層の日常生活が、丁寧に、肩をいからせない文体でゆっくりと語られる。死んだ母親の頬肉を食うという飢饉のときの農民の悲惨さ、一幅の山水画に千両の値をつける谷文晁の傲り、飢饉のさなか一日千斤の砂糖を消費するという江戸城御殿女中の退廃、崋山がいったん訴追されると、昨日まで稀代の名画伯とたたえたその墨も乾かないうちに「あの人は過激派だと思っていたと」囁き合う尻の穴の小さい画壇仲間たち。

 渡辺崋山は愛知県の南部、わずか12000石の小藩・田原藩の家老を務めた、きわめて清廉、実直な男だったとされる。そのことは残された親しかった弟子・椿椿山作の肖像画からも彷彿されるが、一度かれは家老として、藩内諸役人の勤務モラルのあまりの低さを正すべく、俸給制度を万古不易と思われた禄高給から能力給に大改革しようとしている。ただ、藩内守旧派の猛反対にあいながらも一応殿さまのOKもとったのだが、ときは天保大飢饉の真っただ中。優秀な人間に能力分を上乗せしようとしても、それではもともと現在の生活保護世帯レベルの者たちの給料を減らさなければならず、実行はとうてい不可能だった。

 なお崋山は個人的には人並みかあるいはそれ以上か、女性のことを大好きだったらしい。が、それは当時の風俗一般であり、別に目くじらを立てることではない。

 それはそれとして、ここに登場する人物の多士済々なこと。有名どころだけをあげても、徳川家斉、水野出羽守、水野越前守、林大学頭述斎、述斎の4男鳥居耀蔵、述斎の弟子松崎慊堂、水戸斉昭、頼山陽緒方洪庵、谷文晁、滝沢馬琴、高田屋嘉平、江川太郎左衛門高島秋帆間宮林蔵伊能忠敬国定忠治二宮金次郎、大倉永常、太田南畝、十返舎一九大塩平八郎・・・・、きりがない。これらの面々がこの小説の中に、平凡な言い方だが、私たちが直接付き合った人のように動いている。ひとが生き生きと動いているから、170年も前の時代が現場感をもっている。
 その170年前の時代、攘夷派たちはこんなことを考えていた。水戸藩士であるのに崋山に共鳴するところのある立原杏所は言う。ともかく水戸は殿様も家中のものも西洋嫌いに生まれついているのですよ。オランダ人は流派はちがうけれども、邪宗門の同類で牛豚の肉を食らい、妾を禁じ、横文字を使用することでは共通だ。畜生の肉を食らうやつらは、血や肉が、ひいては精神も同じになる・・・。」崋山はくすくす笑った。「ぼくは牛肉を食べるから、畜生なみかな。慊堂先生も述斎先生と同じ儒学者なのに、牛肉をお好きだからやっぱり大学頭様とは合わないのでしょうね。

 杏所またいわく、それに、斉昭の殿さまによれば妾を禁じるとは子孫を残すべき人間の道に反する畜生道。横文字を書くとはまぎれもなく心がまっすぐでない証拠だそうです。オランダを追っ払って近年流行しておる蘭学を禁制にせにゃいかん。諺にもわが仏こそ尊しと言うように、だれでもその先師を尊いと思うのは自然の勢いである。蘭学者は今に邪宗門までもよいと言い出すのではないかと心配しておる。オランダ人を追放し、蘭学を禁制しようとも、この神国の人が、禽獣同様の西洋人に及ばぬはずがない。最近ではエレキテルとかマグネットとか役にも立たぬ枝葉末節の遊びごとで人民をたぶらかすだけで、百害あって一利なしじゃ」だそうです。(下巻p260)

 一方そのころ、林大学頭述斎の邸宅では述斎と、目付に大出世した4男鳥居耀蔵が密談している。「崋山はなかなか深いたくらみをしていますぞ」と鳥居。「今度それがしが仰せつかった相州沿岸検分の副使・江川太郎左衛門が西洋かぶれなのにつけ込んで、オランダ式測量を採用させたそうです。それによってオランダの学問技術が日本在来のものよりはるかに優秀であることを見せびらかそうという腹です。いや、学問だけでなく、兵器や兵制まですっかり西洋式に変えてしまうのが最後の目標なのですぜ。田原藩下屋敷でひそかに西洋式大砲の試験をしたらしいと、われわれ監察方に情報が入っているくらいです。監察方としましては、かかる横議や人心の擾乱を放置するわけにはできませぬから、その黒幕の探索に取り掛かっています。いやすでにその者の線は浮かんできているのですがね。」(下巻p307)

 尻の穴の小さいのは画壇の仲間だけではなかった。「崋山の家には欧米諸国の新知識を求める旗本や諸藩の重役がよく顔を出して、いずれも崋山を先生と呼んでいたけれども、いったん崋山が訴追され、時の首相・水野越前守が捜査の総指揮ををとっていることが分かると、江川太郎左衛門ら数人を除いて、崋山助命にかかわる周旋依頼に対して彼らは迷惑千万という表情で、いかに訴えても取りあわなかった。牢内の崋山は、12年後に彼の肖像を描いた椿椿山からそういう報告を受けるまでもなく、公儀の役人がどんなに臆病であるか、いろんな交渉事を通じて心得ていた。あれほど賄賂に目のない連中なのに、容疑者の親類友人からは菓子折りひとつ受け取らないだろう。まして天下の罪人の救援に指一本貸すはずがないではないか」というわけである。(下巻p522)

 ・・・・その後、因果はめぐりめぐって、崋山没後100年、愛知県田原市には渡辺崋山神社が建立され、崋山顕彰会なるものがこしらえられたという。いやはや。

 

アラン・シリトー 『土曜の夜と日曜の朝』(新潮文庫)

 いわゆる悪党(ピカレスク)ロマン。しかし主人公アーサーは悪党ではあるが犯罪者ではない。第二次大戦終わって間もないのに今度はアメリカとソ連が怪しくなる。モスクワに水爆が落とされてなにもかもおさらばになっちゃかなわない。その前にしがない人生をめいっぱい楽しみ、世間を片っぱしから壊そうと決めたアーサー=労働者階級若者の心理の成り立ちと成り行きが300ページいっぱいに書かれている。

 アーサーにとっては、「ばかげた法律なんてものは、おれみたいなやつにまんまと破られるためにある」もので、だから彼は顔が青くなるまで嘘をつき続け、悪くない頭を使ってずるくたちまわることを唯一の武器として、高賃金の工場と、週末ごとに倒れるまで飲む居酒屋と、同僚の女房の寝室の間を懸命に駆け回る。そしてとうとう寝取られ同僚に妻とのことを嗅ぎつけられ、軍隊上がりの大男を二人も差し向けられて半殺しの目にあう。

 しかしアーサーは母親思いで、幼い子供達にも優しい。読者に憎まれる札付き不良としては描かれていない。一度は国政選挙のとき、まだ選挙権がないのに父親の投票権を持ち出し共産党に票を入れている。しかも「組合集会に出ろとか、ケニアでの英軍の横暴に抗議」しろとかばっかり言って、肝心の賃上げには臆病な組合幹部には反感を抱いている。

 要するにアーサーは、自分の目に触れる範囲のあらゆる社会的な権威と束縛に本能的に反抗しているわけで、この反抗はなんら意識的なものではないし、自分がどういう規準にのっとって何に反抗しようとするのかについて自覚的ではない。

 シリトーはこんなアーサーの無鉄砲ぶりを、ただ目に見える行動だけを通して身体的に描いていく。だから読者には、一体シリトーが描こうとするものが何なのか、だいぶ考えないとわかりにくい。解説を書いた河野一郎氏は「アーサーの怒りの源泉は福祉国家イギリスの持つ矛盾に対しての漠然とした腹立たしさだろうか」と述べているが、それでは多分曖昧すぎる。

 20世紀前半までの工場労働者の生活――アーサーの父親までの家庭経済はひどいものだった。タバコも切れがちで、家族旅行など夢でしかなかった。でも父も母も、自分たちの階層はそんなものだと観念して、日ごろの憤懣は息子のように暴力的にはならなかった。
 戦後になってそれが変わった。アーサーは自分が幼いころの父と母の生活苦を知らない。今はふつうに働けば中古車だって買えるし、彼のクローゼットには優に100ポンド分はあろうかという上等な服がずらりと並ぶようになった。
 これは明らかに国の福祉政策のたまものなのだが、彼の身体はそれに感謝を感じない。感謝のかわりに、たまに上等の服を着られるようになっただけ、逆にアーサーはそれ以上には決して上昇させない社会の階層性に激しく苛立つようになってしまったのだ。日本の若者が決して見せない階層としての苛立ちである。

ロバート・ゴダード 『千尋の闇』(創元社推理文庫)

 2週間前の本ブログでぼくは本作はすでに紹介済みだとしていた。ところがこれは勘違いだった。

 本作はイギリス中上流階級の3世代にわたる陰謀と裏切りの複雑きわまりないミステリー。20世紀初頭に南アフリカで起きた重婚詐欺が数年のちの内務大臣(A)の更迭につながり、馘首された内務大臣はポルトガル領マデイラに隠棲を余儀なくされてその地で回想録を書く。
 千尋の闇の底を記したその回想録には、首相アスキスを追い落とそうとするロイド・ジョージや、事件と微妙な距離をおこうとする曲者のウィンストン・チャーチルが実名で登場して、いかにも英国政治家らしい含みたっぷりのせりふを吐く。しかもこの政治劇には当時の急進的婦人参政権運動の女たちが一枚かんでいる。被害者意識を先鋭化させたこの女たちが権力志向のロイド・ジョージと策謀をめぐらせて内務大臣を奈落の底につき落とす場面は、日本の右翼政治家どもに見習ってほしいほどの天晴れさだ。

 重婚詐欺からはじまった陰謀と裏切りは内務大臣の墜落だけでは終わらない。内務大臣自身、自分の失脚の理由が分からなかったのだが、やがてそれは作中で「そういえばあの男は・・・」という伏線が張られていた男に焦点が絞られていく。この男(B)は、もとは婦人参政権運動家であったこの小説のヒロインを手に入れ、参政権運動と密約していたロイド・ジョージの知遇も得て、兵器商人として叙爵までされるのだが、その男が内務大臣の重婚を「証明」する書類を偽造していたのだ。

 この偽造された結婚証明書を落魄の内務大臣に見せた人物(C)こそ、小説の中で最も「悪」の影の濃い人間だった。しかし彼の「悪」の影がいかに濃いものであろうと、その影は南アフリカボーア戦争でイギリスがオランダ人社会に対して行った残虐行為の反映である。(B)はボーア戦争のどさくさに紛れ、友人(A)の名をかたってオランダ人の女に結婚詐欺を働き、三日後にはその女性を捨てたのだった。女性は妊娠してしまっていたが父親が逃げてしまったから、子供は私生児として生まれるほかはなかった。「悪」の影の濃い人間に成長するのは仕方なかった。

 因果が巡りめぐって、(C)は(B)が偽造した(A)の結婚証明書を手に入れる。(A)は(B)を追い詰め、(B)もかつての(A)同様すべてをなくす。イギリス人にひどいことをされて生まれた私生児(C)の復讐はこうして完成する、のだが・・・。

 だが、以上はこの小説の複雑なプロットの何分の一かを書いただけにすぎない。上のことは小説の語り手「わたし」の祖父母時代の話であって、「わたし」の現実の身のまわりでも祖父母時代に輪をかけたようなことが次々と進行して読者をハラハラさせる。 

 『千尋の闇』は、『リオノーラの肖像』をヒットさせたロバート・ゴダードの作家第一作だということだが、ゴダードに詳しい京大教授・若島正氏が解説に書いているように、「過去の探索を主軸にする複雑きわまりないプロットを読者に提供するのに、ゴダードはまことに達者なストーリーテリングの才能を発揮している。」日本のミステリー小説にこのようなスケールの作品がなぜ出ないのか、「想像力」に関する国民性に彼我の差を思ってしまう。ことは文学に限らない。

 

 

ウィングフィールド 『フロスト始末』 創元推理文庫

 6作品、9巻にわたって楽しませてくれたウィングフィールドの遺作である。上下巻あわせて約900ページ。これまでの作品と同じように、この『フロスト始末』 にも数々の変態的な犯罪が、読者がその場を目撃しているかのような迫真の描写力で描かれている。そしてそれを5ページに一度は披露してくれる下ネタ駄洒落が絶妙にコーティングしていて、ただの猟奇殺人警察小説とは桁が違う味わいを作り出している。

 最後の作品である今回は、そうした従来からの面白さに、警部自身がスキナーという新任の権力志向主任警部の罠にかかって、デントン署を去らざるをえない状況に追い込まれるというエピソードが加わっている。この人事異動には読者おなじみのケツの穴の小さいマレット署長がもちろん一枚かんでいる。

 ガタが来たきた身体にムチ打ち、直感と経験だけの乏しい知恵を無理やり絞り、わずかな能無し部下を率いながら睡眠時間を削って捜査にあたるフロストは、相次いで発生した3件の少女誘拐・暴行・殺人事件や荒稼ぎ安売りスーパー脅迫事件に立ち向かいながら、署内の人事陰謀をかいくぐれるのか?

 小説後半で、犯人逮捕の功を独り占めしようとするスキナー主任警部は、フロストや部下警官が止めるのも聞かずに、犯人と接触しようとして、銃弾に倒されてしまう。そのときのフロストの本音のつぶやきがいい。ぼくは警察にはいなかったが、だれでもそうだろうが、正直いって、死んでほしいと思ったやつとは何人もつきあった。
 「あんたのことは、底の底から、いけ好かない野郎だと思ってたよ。死んでほしいと思ってたわけじゃないけど・・・・・、でも、こんなことになって気の毒だとは、どうしても思えなくてね、悪いね」

 

ロバート・ゴダード 『蒼穹のかなたへ』 文春文庫

 これまで僕が読んだロバート・ゴダードは、デュ・モーリアレベッカ』をさらに不気味にしたような超傑作『リオノーラの肖像』、著名な経済名士家系を翻弄する詐欺師の天才ぶりに読者が唖然としてしまう『欺きの家』、実名で動き回るロイド・ジョージチャーチルが、光の届かないイギリス政界の闇の深さを浮かび上がらせる『千尋の闇』の3作。どれもが、出版社の宣伝文句もたまには嘘をつかないことがある、もしくは、ゴダードの力量は宣伝屋ごときが2、3行のコピーでは伝えられないことを実証していた。

 この『蒼穹のかなたへ』上下巻もまた、読者を数日のあいだ楽しませてくれるものだった。上下2巻、700ページの長編。主要人物だけで20人以上。どれひとりとしてぞんざいな扱われ方をしていない。メインらしく思われるストーリーが、途中で二転、三転するように読者は惑わされ、下巻の半分までは何が事件の全貌なのか、読んでいる途中で相当考えないといけない。
 そしてそして・・・、たとえ上巻の後半から20ページごとに20回考えたとしても、最後にはそれは全部外れていることを知らされる。作者の頭脳はつねに読者の推理の裏をかく。「犯人」らしき人はしだいにわかってくるが、なぜ彼がそうしなければならないのかを推理できない。読者は作者のはかりごとにますます引きずられていく。

 佐々木徹という京大英文学助教授だった人が、やや興奮の気を入れて「解説」を書いている。「もしいまあなたが『蒼穹のかなたへ』というこの小説は果たして面白いのだろうかと迷いながら、本屋さんの店頭でこの「解説」をのぞいておられるのなら、どうぞ心配の必要はまったくありません、すぐにレジにこの本を持って行ってお買いなさい。もしいま小説を読み終わってこの「解説」を読んでおられるのなら、あなたは私の言ったことに強くうなずいておられることでしょう。プロットが起伏に富んでおり、意外な展開に満ちていて、語り方に工夫が凝らされ、しかも人物がよく描けていて、性格造型に無理がない、とくれば娯楽小説としてこれ以上何が望めましょう。」