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夏目漱石 『それから』(角川 漱石全集7)

 『それから』は1908年作『三四郎』の翌年に書かれた。だから『それから』は小川三四郎の人生がそれからどうなったかを描いたものであるという人がいる。が、これはまったく間違っている。両作品は牛と馬ほどに違うことを書いている。

 まだ江戸時代であるかのような熊本の田舎から「どこまで行っても街がなくならない」大都市・東京にポッと出てきた小川三四郎は、大学構内の池の端で美禰子の視線に出会ったとたんに、一生消えないような焼き印を胸に押されてしまう。それくらいオボコイ青年だった。
 
対して、東京の資産家の次男に生まれた『それから』の永井代助は、30歳になっても、学生気質の理想主義がまだ抜けない。実世界での職業生活をことごとく侮蔑し、パンのために汗を流すことを奴隷の人生と何ら変わりないと公言する。月々の生活費を100%父と兄に頼るが、父と兄のアタマでは実業しかないのだからとうそぶき、自分の親がかりを「アンニュイ」な論理の中に埋めて暮らしている。とはいっても『三四郎』の広田先生のような、世間の栄達や名声をほぼ完全に締め出すアタマの中の論理整合性はなかなかのものをもっている。

 三四郎が生まれて初めて深刻な恋心を抱いた美禰子は、漱石が「その巧言令色が、努めてするのではなく、ほとんど無意識に天性の発露のままで男を虜にするところ、もちろん善とか悪とかの道徳的観念もないでやっているかと思われる・・・・」と言っているような女性だった。
 対して代助といっしょに悲劇に落ちる三千代は「世間が許さなければ死ぬ覚悟があります」と、いつも真顔の女性である。彼女は代助の学生時代の親友の妹で、兄と暮らしていた当時から代助の気持ちは知っていた。しかし、代助のもう一人の親友である平岡も三千代に激しく恋していた。そして「自分に誠実でありたい」代助は、三千代には自分のような性格の男よりは平岡のような実世界向きの男の方が向いていると判断し、彼女を平岡に譲ってしまう。

 代助は外の世界を動かすということに興味がない、自己観察にしか心が動かない文明批評家だが、その一方、三千代に対する自分の気持ちを素直に扱えない「誠実な偽善家」でもあった。このことが悲劇の発端になる。

 代助の父親は幕末に、ある藩の財政を立て直した能吏だった。儒教思想で凝り固まった自信家で、昔の成功体験をもとにして今も代助の兄を引きつれて、なにをやっているか代助にはよく分からない政商の世界で顔を利かしている。そのうちに大きな製糖会社の贈収賄事件に巻き込まれ、父親はかなりの損害を蒙る。

 しかし父親の昔の知り合いに、現在は兵庫県のどこかで裕福に暮らす大地主がおり、その娘がちょうど適齢期になっていた。利に敏い父親はそのことを見逃すはずはなく、いつまでもぶらぶらしている代助にその娘を貰えという。娘の父の資産を傾いた自分の会社に役立てようというわけである。そのことを知った代助は、これまでも何のかんのと言って縁談に応じようとしなかったが、従来以上に父親が自分の欲望をむき出しにする今度の縁談もすっぱり断る。

 一方、三千代の夫・平岡は3年前に九州のある銀行に就職したのだが、そこで不良資産がらみで上司に詰め腹を切らされ、東京に帰ってきて新聞社の経済部にいろいろ苦労して再就職する。当時の新聞社は――今でもその一面は大いにあるが――、まだまだ江戸時代の瓦版がのし上がっただけの雰囲気を残しており、風聞・ゴシップ記事が幅を利かせていた。

 ちょうどそのとき、3年ぶりに三千代にあった代助は、過去に自分を偽って三千代を平岡に譲ってしまったことを思い出す。その三千代はいま夫の失業や結婚後の死産のせいで健康がすぐれていなかった。その三千代を見た代助は、実世間を「アンニュイ」な知的論理で小ばかにする日頃の態度を忘れ、かつての学生時代の恋心をそのまま甦らせてしまう。そして平岡に「お前は彼女を幸せにできない。彼女を俺にくれ」と談判してしまう。

 談判のとき世間に疎い代助は平岡がゴシップ新聞の経済記者であることを忘れていた。三千代を代助に取られそうになった平岡は、代助の父にそのことを知らせる。贈収賄事件の余波に悩む父にとって息子の醜聞は致命傷になる。かくして代助は即座に勘当され、いっさいの収入を絶たれる・・・・・・。

 この巻の末に武者小路実篤の『それから』に対するオマージュが収められている。代助の一面の理想主義は白樺派お坊ちゃんたちの「新しき村」に多大な影響を与えたらしい。漱石は代助の理想主義を――朝日連載終了後、胃潰瘍を発症しながら――蟷螂の斧として、ちゃんと破滅させているというのに。お坊ちゃんたちはいつもたわごとを考えるものだ。

最相葉月 『絶対音感』(新潮文庫)

 絶対音感とは、ごく簡単にいうと、例えば440ヘルツに調律されたピアノのA音(ラの音)を基準にして、そこからすべての音を正確に聞き分けられ、楽器でも声でも再現できる能力のことだそうだ。完璧な絶対音感を身につけた人は、街中のさまざまな雑音の中から、タイヤの軋み音、子供の金切り声、大男の叫び声の音階を正確に五線譜上に書けるらしい。一時大いに流行した子供の早期音感養成教育の効果で、日本人にはこの絶対音感を持つ子供の割合が高いらしい。

 p150

 映画『レインマン』の原作者で、『妻を帽子とまちがえた男』などの著作で知られる脳神経科医のオリバー・サックスは、絶対音感が生まれつきのものなのか学習によって多くの人が得られるものなのかは分からないと前置きしながら、次のように言う。
 「絶対音感モーツァルトメンデルスゾーンは持っていたといいますが、シューマンにはなかったといわれています。私の印象では、絶対音感と音楽的な才能や創造性はほとんど関係がないように思われます。持っていれば便利ではありますが、ただその場の環境や体調によっては音が狂って聞こえるといった面もあり、ときには非常に厄介であったりもするようです。
 「しかし、絶対音感が言語のように生きていく上で絶対に必要なものなら、おそらくもっと誰もが普通に持っていたはずです。多くの人が持っていないということは、人間が本来必要としないものを持っているという点で、特殊な能力であることは確かでしょう。」

 p304-5

 千住真理子は、最年少の15歳で日本音楽コンクールに優勝したとき、天才と絶賛された。だがそれは、テクニック先行型のバイオリン弾きが生まれたという留保つきの賛辞であると、もとN響コンサートマスターだった師の江藤俊哉は厳しく念を押した。「あなたはもう完璧だ。弾けないものは何もないはずだ。でもこれからが大変だね。これからあなたに求められるものは、(ただの超絶テクニックではなく)音楽という名の芸術だ。いつの日か、あなたの演奏で僕を感動させてください。」
 15歳の千住はただ呆然とし、答える言葉を見つけられなかった。「技術を磨くことは簡単なんです。一生懸命努力すればいいのですから。でも私は、優勝したとき、その技術が100パーセントあるということで、それしか自分にはないことをさらけ出してしまったんです。」
 「何を表現したらいいか、それがわかる私もいなかったんです。友達が何人かいて、好きな科目もある、そんな、ごく普通の15歳の私しかいなかったんです。喜怒哀楽もとても幼いものでしかない。幼稚な感情しか表現できない。テクニックは完璧だけど、そんなもので芸術は表現できない、幼すぎる。江藤先生に一言も答えられない自分だけがそのときいました。」

木村尚三郎  『西欧文明の原像』(講談社学術文庫)3/3

 自分以外のすべてに対する不信感こそ、西欧の力の源泉

 P251-258
 権力を掌握する者は悪いことをする、彼らを信じきることは破滅を意味する。人はそれぞれ自分で自分の身体・生命・財産を守らなければならない、ーーこれが16・17世紀の宗教戦争期以来のヨーロッパ人の生活信条であり、日常的な生活感覚だった。髪の色、皮膚の色、目の色、ことばが違うのであれば、こころの通い合う道理はなく、人間が互いにそうであれば、権力をとれば当然悪いことをするであろう、――この、自分以外のすべてに対する不信感と、争いと傷付けあいから生まれる罪の意識が極度に大きくなったことが、人間を超越した唯一神・キリストに対するひたすらな信仰を一般化したのだった。このうちの宗教改革期の新教がアメリカ新大陸にそのまま移住して現在の福音派の大隆盛に繋がっている。

 日本人の「家の子」意識から世界に誇るべき何が生まれる?

 P372-5
 ところでこの冷たく突き放した自己観察・自己評価の神経に、日本人はどれだけ耐えられるか。わたしたちは自身による客観化どころか、他人による冷徹な客観化さえ好まない。
 著名な外国人が来日すれば必ず日本についての感想を求めるが、そのとき私たちは必ず良い採点を期待する。どうかして正直な採点でもされると、意気消沈してしまうか、国際儀礼もわきまえない失礼な奴と憤慨する。

 自ら主体的に戦うことなく「いい子」でいたい、むつみ合う「和」の関係のなかに自らを安定的に位置付けたい、そしてこの「和の関係」を安定的に保つために、強制力を伴う「権力」「権力者」でなく、人を心服せしめる「権威」「権威者」を「上」に仰ぎたい。さらに、働くことは厭わないが、自分だけで働くのではなくて、ほかの人と一緒に、同じ程度に、同じ仕方で働き、また休むのもほかの人と一緒に、同じ程度に、同じ仕方で休みたい、・・・となればこれは、大地に一族郎党がいっせいに労働力を投下することによって初めて大地から豊かな報酬を期待できた1000年前以来の「家の子」の生活感覚にほかならない。江戸時代の家制度ないし旧民法下の家はもはや遠い過去のものとなってしまったはずであるが、「家の子」意識は現在でも日本人の生活感覚、社会的倫理規範の中心を貫いている。

 土地に縛り付けられるという農奴の不自由性は、近代市民の自由と対比して高校世界史の教科書でとっくに履修済みのはずである。さまざまの異なった皮膚や言語の人々と緊張のうちに共存し合うことによって、新しい生活領域と新しい自己を作り出していくこそが、社会の近代化を推し進める原動力のはずであった。とすれば、つねに心を「許し合い」、慰め合う生活環境に安住して、つねに「うち」と「そと」を区別し、不自由な自分を見つめない生活態度は、ヨーロッパ中世の農奴と一体どこが違うのだろうか。

 他人の不幸がみずからの幸せという倒錯した残酷な心理は、みずから積極的に運命を切り開きえない植物的受動人のそれであり、女性的日本人の大半が内心ひそかに抱いている悪質な感情である。これが根強く残っているとき、自分自身は人並み以下に落ちたくないという、猛烈な差別反対、能力主義反対の態度を生む。そして有能な人材とみればよってたかって凡俗のレベルまで引きずりおろそうとする。この心理がわが国には大きな社会的同調圧力として作用しており、結果的に、世界に誇るべき普遍的かつ個性的な文化価値が生じがたいことになっている。

木村尚三郎 『西欧文明の原像』(講談社学術文庫)2/3

 ウマイヤ朝ムスリムが紹介するまで、西ヨーロッパはアリストテレスを知らなかった

 p77-9、86-9
 西ヨーロッパがプラトンアリストテレスを知ったのは12世紀のことであり、それもスペイン・ウマイヤ朝イスラム教徒を介してのことだった。ウマイヤ朝の首都スペインのコルドバは当時ヨーロッパ一の大都会であり、道路は舗装され、夜は街灯がともっていたという。パリが初めて舗装されたのは1184年のことで、それもルーヴル宮の前だけだった。

 ギリシア・ローマの古典文化がイスラム文化を通して西ヨーロッパに紹介されたということは、西ヨーロッパにとり、地中海の古典文化はイスラム文化と同じく異国の先進文化だったことを物語っている。そしてまた異国の先進文化であったがゆえに、西ヨーロッパは過去にコンプレックスをいだいた。それはちょうど明治以降の日本において、つねに欧米を基準とし、欧米先進文化を引合いに出すことによって、自らの学問・文化の権威づけが行われてきたのとよく似ている。17世紀フランス文人の間で戦われた「古代人・近代人優劣論争」は、この意味でまことに興味深い。

 西ヨーロッパが古典古代へのコンプレックスから完全に解放されたのは、じつに第二次大戦後のことだった。それは、西ヨーロッパ諸国の経済復興と発展、欧州共同体の発足と展開、そこでの相互協力による高度の産業化と一体の過程が、歴史的・文化的個体としての自分たち<西ヨーロッパ>を、ギリシア・スペインなど地中海世界との対比において、初めて自覚させたものと言えよう。

 今日、西ヨーロッパ諸国の教育機関において、ラテン語学習が義務的科目から外され、また西ヨーロッパ世界の成立を11、12世紀に求めるようになったのは、高度の産業化によって西ヨーロッパがはじめて自己を主張する自信、地中海世界との異質性に対する明確な意識を持つようになったからであった。そして「中世」ということば自体が、今日すでに特定の時代概念ではなくなりつつあり、たんなる便宜上の日常語として使われるにすぎなくなった。

 フランスの近代国民国家はイギリスへの恐怖心が生んだものだった

 p109-10
 19世紀の国民国家はそれ自体が虚構であり、擬制であった。地方政治や官僚制度など国家組織の基本が未整備、不整合、不安定であり、革命や暴動といった動乱の可能性が常に孕まれていた。支配する側にもされる側にも、自己を維持しとおすために英雄とか、強烈な人格とかを待望せざるをえない状況が日常的に存在していた。

 なぜ近代ヨーロッパの支配者とブルジョアジーは、無理をしてでも、それ自体が擬制である政治体を作り出さねばならなかったのか。その最大の原因は近代イギリスの存在そのものであり、大陸側の市民はつねにイギリスに存在に心理的圧迫を受けていた。
 イギリスは機械制生産をなしとげる産業革命のはるか以前から、ナショナルな規模で商品生産を展開できた唯一の国家である。14世紀後半以降、国際的花形商品として大規模に生産されるにいたった良質の毛織物がイギリス最大の武器であった。
 このイギリスとドーバー海峡を挟んで相対するフランス・ブルジョアジーは、14-15世紀の100年戦争以来異常な勢いで発展するイギリスに緊張感を抱き始めていたが、くだって18世紀にイギリスが産業革命を成功させるにおよんで、緊張感と恐怖は極点に達した。
 その結果、合理的思考の持つ現実変換能力がいやがうえにも高く評価されて、啓蒙思潮が生み出され、絶対王政の打倒と国民国家の樹立が叫ばれたのだが、それはひとえに、この「非常識な」イギリスに対する、フランス・ブルジョアジーの自己防衛反応の所産であった。 

 全国的な飢饉が自作農を一斉蜂起させ、フランス革命を全国に波及させた

 p185-6
 ところで、フランス革命はなぜ起こったのか。
 ルイ16世の無能・無気力とマリー・アントワネットの奢侈にどれほど国民が憤慨し、国民国家樹立の必要性や人権思想の理念が説かれ、それによってパリだけは動いたとしても、コミュニケーション手段の劣悪な当時では、とても全国一斉の人民蜂起というわけにはいかなかったろう。市民社会理念や人権思想の確立は、フランス革命の評価ではありえても、必ずしも原因たりえない。

 じつは革命のはじまる前年、フランスはたいへんな凶作であった。そして翌年の春からは穀物が深刻に不足し、価格が高騰し、飢饉がおとずれた。全国の農村は、「強盗団」が穀物を奪いに来るのではないかとの思いからパニックに陥った。
 こうしてすべての農村がいっせいに武装をはじめ、穀物を取られる恐怖に駆られて領主への年貢支払いを拒否しただけでなく、領主館を襲って年貢のもとである証書を焼き捨てた。凶作が全国の農民に等しく自衛・土地防衛の行動を起こさせ、結果として領主権を攻撃させたことこそ、フランス革命を準備し、成功に導いた最大の原因である。

木村尚三郎 『西欧文明の原像』(講談社学術文庫)1/3

いまのアメリカは、「西欧の精神」の露骨な見本帳だといえる

 p46-8

 欧米人にとって戦争は、長いあいだほとんど唯一の、そして確実なコミュニケーションの手段そのものだった。今日なお、その意味は失われていない。
 欧米の文化はまさに戦士の文化であり、一人前に戦い得るものだけが人間としての資格と権利を認められ、主体性を発現し得る文化であった。そして、敗残者は公園のベンチに終日じっと腰かけていることを余儀なくされる。アメリカの大都市の片隅に見うけられる人のように。

 第二次大戦後アメリカ文明の影響を全身に浴び続けた日本では、企業戦士という言葉がマスメディアで使われない日はなかった。一人前に戦いえた上級企業人たちの栄光と、力をなくして老残兵となった人たちの余生の対比も、アメリカの風景を縮小コピーに取ったように似ている。

 現代の啓蒙思潮による人権思想の展開は、このような冷酷非情な自己確認の態度がいささかなりとも変化したことを意味するものではない。
 人権思想は、商品経済の進展とともに人々の社会的な相互依存度が増大した結果、傷つけ合い殺し合うことによる自己確認方法が、少なくとも市民社会の内部では互いの不利益になり、暴力・腕力によるコミュニケーションよりは「対話」によるコミュニケーションの方が利益に富むことを社会が気づいたからにすぎない。
 すなわち、欧米国家は対等な相互依存関係を必要としない相手に対しては、依然として力によるコミュニケーションが続ける。もっとも先進的に民主主義を実現してゆく国家が、国際社会では植民地支配を行い、非民主主義的に行動したとしても、それは自己矛盾でもなんでもない。それは自分の主張を実現する表面と裏面の行動なのであって、それをまやかしあるいは見せかけとみるのは全くのあやまり、あるいは日本人の偏見である。

 ここでの「対話」は、だから「気心」の知れない冷たい対話であり、日本人同士の「こころ」が触れ合う暖かい話し合いとは根本的に異なっている。日本で「話し合いに応じる」といえば、それは対立していたものと仲良くする意志のあることを暗黙の前提としている。従ってそのとき現実に双方から交わされる言葉は、直接・間接に「気心」を伝え合う媒体でしかなく、極端な場合にはどうでもいい飾りにすぎない。その「話し合い」は男女、夫婦、親子の会話のように、共感と情感に媒介された睦言、おしゃべりである。鋭い論理、一言ごとに自他の利益を測定する精神態度は存在しない。

 p49-50
 アメリカ人は、国民国家に生きる人々の感覚からすれば、一人ひとりが母国語を持たない孤独な国際人である。彼らのあいだには風土も人情も捨象した論理的な人間関係しか存在せず、またそれだからこそ19世紀的な国民国家を克服して大陸型の国家をつくりあげ、維持できているのだといえる。
 一人ひとりは率直・快活で善良な、要するに「人の好いアメリカ人」のイメージと、ケネディ大統領、ケネディ上院議員、キング博士を暗殺した暴力的なアメリカ人のイメージ、それにベトナム戦争の暴挙を長年続けた傲慢なイメージは、どこでどうつながるのだろうか。
 おそらくこれらのどれもが、アメリカ人の一面を正しく表現しているのだ。すなわち相互依存の必要がない(と当時は思っていた)東南アジアの国に対しては、全力を挙げて先制攻撃をしかけ、叩き潰そうとする。反対に相互依存の必要ありと判断した中国・ソ連のような国に対しては、これまた全力を挙げて、攻撃意図のないことを積極的に表明し、対話による平和共存の道を見出そうとする。それは生きるために冷たい言葉、自分でもよそよそしいと感じる言葉しか持ちえない孤独な人々の、いわば自営本能にもとづくともいうべき精神態度であり、自分以外のすべての人間を信じることのできない緊張感から、それは発している。

 ひとことで言ってしまえば、アメリカ人のフランクな人の好さは生きるための術である。それはもちろんタテマエなのだが、このタテマエはまさに真剣・切実なもので、それなりに社会的真実性を持っており、そこでは個人による壮絶な戦いが日常的に展開されている。

 アメリカは、天国と地獄の存在をいまだに信じている人の割合が欧米キリスト教国の中でいちばん高い。キリスト教がしだいに生命を失って習俗化し、冠婚葬祭の儀礼と化しつつあるヨーロッパ諸国とは大きなちがいがある。アメリカ人は依然として、個人一人ひとりで神と向き合わねばならなかったルター、カルヴァン以来の厳しいプロテスタント伝統の中にあるわけで、逆方面からいえばアメリカ人はそれだけ、人間そのものに対する根底的な不信感のうちに生きることを余儀なくされていることになるだろう。

シュテファン・ツヴァイク 『マリー・アントワネット』(岩波文庫)

 ナチスドイツによって永遠に葬り去られた古きよきヨーロッパ。社会上層の教養主義がまだ本来の意味で生きていた時代への愛惜を、ツヴァイクは脱出先の南米のホテルで何の資料も持たずに、ただ驚くべき記憶力だけを頼りに、『昨日の時代』として一気に書き上げた。そしてそのあと、妻といっしょに毒を飲んで死んだ。もう一年生きれば、ヒトラーが敗北するのを自分の目で確かめられたのに。しかし彼にとっては、ヒトラーがいなくなろうとどうなろうと、破壊されつくした「よきヨーロッパ」が復活することはありえないのだから、自分と周囲の教養人たちの時代はもう終わったのだと、自死の決心が揺らぐことはなかっただろう。

 自分の才智にくらべて名前だけが何百倍も膨れ上がって伝えられているマリー・アントワネットについて書くときも、ツヴァイクの抑えられた筆致は少しも変わらない。ドイツ伝記文学の最高峰とされるこの作品は、著者があとがきで言うように、「巧者なジャーナリストたちが、マリー・アントワネットの取り巻き連の名前をふんだんに使って厚い捏粉をこねあげ、甘ったるい砂糖をふりかけ、感傷的な思いつきのうちに長いことこね回しているうちに、一冊の本が出来上がる」具合の作り方が、一切なされていない。
 上下2冊のいたるところにマリー・アントワネットは登場するが、彼女の人となりはいつも変わらない。本書カバーが言う「歴史の偶然によってたまたま大きな役割をふりあてられた、どこといって非凡なところなどない美しい女」が「虚名のみ高く、毀誉褒貶半ばする」のは、ただ彼女がデリケートな事柄にはトンと鈍感だったからであり、毀誉も褒貶も自分の気持ちよさの前にはあまり意味を感じなかったからである。

 上巻p145-6

 マリー・アントワネットが犯した致命的誤りは、女王として勝利を博する代わりに、彼女が一人の女として勝とうと欲したことである。彼女が女としてあげるささやかな凱歌は、世界史上の偉大な、宏遠な勝利以上に、彼女には重要視される。彼女の遊惰な心情は、王妃という理念になんの精神的内実を与えることを知らず、ただこれに完成した形を与えることしかできなかったから、偉大な課題も彼女の手にかかっては、一時の遊びに化し、高い役目も俳優の役目に変ずる。
 マリー・アントワネットにとっての王妃たることの唯一の意味は、宮廷中でもっとも優雅な女、もっとも艶な女、もっとも美しくよそおった女、もっとも甘やかされた女、とりわけもっとも満足して快活な女として称賛されること、自分たちが人間だと思っている、あの上品すぎるくらい躾けたたしなみのある社交界の連中の「礼儀作法の審判者」であり、伊達者たちの音頭とりであることであった。その軽率無思慮な20年の歳月を通じて、彼女のこの「信念」は変わることがなかった。

  この無意味な過失を具体的に理解するには、こころみに一枚のフランス地図を手にして、マリー・アントワネットが王妃として20年間を過ごしたちっぽけな生活範囲を、そこに描いてみるのが捷径である。その結果たるや人をして唖然たらしむるものがある。というのは、その範囲は非常に狭く、ヴェルサイユトリアノン、マルリ、フォンテーヌブロー、サン・クルー、ランブイエ、このわずかな道のりしか離れていない六つの城のあいだを、マリー・アントワネットは毎日毎日くるくるくるくる動き回っているだけだったのだ。
 あらゆる悪魔の中でいちばん愚かな悪魔、快楽の悪魔によって彼女が閉じ込められた五角の星型をした生活範囲を踏み越えようという要求は、彼女がただの一度も感じたことがなかったのである。

 自分の国を知り、自分が王妃として君臨している多くの州を親しく見、フランスの海岸、多くの山々、城郭、都市、寺院を見ようという望みを、このフランスの支配者はただの一回も起こさなかった。自分の民の一人でも訪れ、あるいは国民の上に思いを致すためだけにさえ、彼女はただの一時間のときをその無為の生活から割いたことはなく、ただの一度も市民の家の門をくぐったことはない。

 パリのオペラ座の周囲に一個の巨大な街が展開していて、貧困と不満に満ちていること、トリアノン宮の池のかなた、有名な見世物の村落の背後に本当の百姓の家々が荒れ果て、納屋が空っぽになっていること、彼女の金ぴかの庭園の柵の向こうに何千万かの国民が労働し、飢えていることを、マリー・アントワネットは決して知らなかった。

 ただ一度問いさえすればマリー・アントワネットにも世界の実相がほの見えただろう。しかし彼女は問おうとはしなかった。時代に一瞥を投じさえすれば、彼女にも理解できただろうに、理解しようとしなかった。一種の鬼火に導かれつつ彼女はたえず一つの円のなかをめぐり、宮廷的操り人形をもてあそび、人為的技巧文化のうちにあって、彼女は決定的で二度と取り返せない年々を空費したのである。

木村尚三郎 『歴史の発見』(中公新書)

 歴史を学ぶとき、今までのような古代・中世・近世・近代・現代といった時代区分ははたして有効なのか。現代の自分たちの世界は、はたしてそのような順序をたどって変化してきたのか。
 著名な西ヨーロッパ文明史家である著者は、その時代の人々が自分の生きる「世界」のなかにいくつの「場」を持っていたかが、歴史的な時代区分を考える上でポイントになるという。

 p49あたり
 いま私たち現代人は学校、地域、職場、政治団体、宗教団体、親睦団体、スポーツ仲間その他いくつもの組織に身を置いており、それらに加わっていることで自分の知見の範囲を、大げさに言えば、全世界に拡大している。私たちはさまざまの組織や「場」に所属し、その「場」に特有の論理と人間関係の中で生きている。
 これにくらべて19世紀までの人間には現代人よりもはるかに狭い行動と知見の範囲しかなかった。人口の圧倒的多数を占めた農民にとっては、村がほとんどただ一つの身を置くべき組織であり、彼らの「世界」だった。町の職人や番頭、手代にしても、親方の家や中小規模の企業が彼らの主たる世界であった。彼らの場合、かかわりあう組織や「場」の数は少なく、かつ小さかった。

p52-3
 この、人が所属する「場」とそこで結ばれる人間関係という観点から見ると、「有史時代」はどのように分類されるか。地縁的組織集団を貫く経済原理が農業・自然経済に立脚するか、工業・商品経済に立脚するかによって分類される次の3つの時代区分がもっとも適切なのではなかろうか。

 第一の時代(古い時代)
 11世から13世紀までの、地縁的農業組織集団時代である。ふつう封建社会の時代といわれ、農村共同体の成立、領主・封建貴族の出現が目じるしとなる。

 第二の時代(中間の時代)
 14・15世紀から19世紀までがここに含まれ、第三の時代への移行期である。互いに異質な農業組織集団の原理と工業組織集団の原理が相克し合い、どちらも優越的・支配的になれなかった時代である。封建社会の崩壊期、絶対主義時代、市民革命と19世紀の近代市民社会などはみなここに含まれる。都市と農村、中央と地方、行政と司法、そして公と私とがことにヨーロッパ大陸では鋭く対立し合い、「私の論理」が特徴的に貫徹した時代である。

 第三の時代(新しい時代)
 20世紀、とくに1930年以降の地縁的工業集団の時代である。国家の大規模な経済への介入と再編成、それによる国民経済の成立、マルクシズムの立場からは国家独占資本主義の成立とされるのもが基本的な指標になる。ファシズム・ナチズムもここに含まれる。

 10世紀までの時代は、ヨーロッパ史では、われわれが考察する時代とは異質であり、無縁であるといってもいい。この時代は地縁的組織集団の本質を抽象的・間接的には語ってくれるが、われわれが考える組織集団の論理については何一つ文献等がない。この意味で、10世紀までの時代はいわばヨーロッパの「先史時代」である。