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レマルク 『西部戦線異状なし』(新潮文庫)

 第一次大戦の若いドイツ兵は、学校の教師から強制的に志願させられた未成年が多かったという。その若者が、訓練中に古参下士官からいじめられ、新兵のうちに最前線で機関銃になぎ倒され、2、3年たつとずるくなって生き延びるようになるが結局は同じように流れ弾に当たって殺されていく・・・・・・、故郷の親に何の蓄えもなく、自分一人を世の中につなぎ止める何の手段も身につけていない田舎出身の若者が犬のように死んでいく話である。

 たまたまひと月ほど前に読んだバーバラ・タックマン『八月の砲声』は、全く同じヨーロッパ戦線をイギリス・フランス側の上層部の目線で書いたものだった。それに対しこの『西部戦線異状なし』は、イギリス・フランスが虎のように恐れたドイツ第1・第2・第3の北方主力軍団の実情を、最前線の、それも下級兵士の血と汗とえぐられる内臓で描いたものである。
 『八月の砲声』の作者が、前線のむごさには興味がなかったように、もともとジャーナリストとして出発したレマルクのこの小説には、20世紀初頭の国家上層の駆け引きや、ミステリアスな陰謀と裏切りのドラマが一切出てこない。作家としての文明批評などもまったく書かれていない。『八月の砲声』の作者が上層ユダヤ人物書きとして「戦場の肉体の動き」には関心がなかったのと反対に、レマルクは「金持ちの大脳の動き」には関心がなかったようだ。たとえば以下のようなことは、ただ自分で実感できる「肉体」でだけで書いたように思える。

 p192
 僕らは頭蓋骨がなくて生きている人間を見た。両足とも撃ち飛ばされた兵隊の走るのを見た。それは両足とも砕かれながら、間近にある砲弾穴へよろけて行ったのもいるし、ある兵卒などはめちゃめちゃになった両膝を引きずって、2キロの道のりを四つん這いになって逃げていた。僕らは口のない人間、下顎のない人間、顔のない人間を見た。ある人などは握り合わせた両腕の上に、腸が流れ出ていた。

 p372
 野戦病院で僕らに不思議に思われたことは、こんな粉砕された肉体の上に、まだ人間としての顔がくっついていて、しかも毎日の生命が続いていくことだ。こういう顔は、ドイツに幾十万とあり、フランスに幾十万とあり、ロシアに幾十万とあることだ。今の世の中にこれほどのことがありうるとすれば、これまで本に書かれたこと、行われたこと、考えられたことは、すべて無意味だ。過去千年の文化といえども遂にこれを防ぐことができなかったとすれば、この世のすべては嘘であり、無価値であると言わなければならない。
 僕らはまだ若い。二十歳の青年だ。けれどもこの人生から知り得たものは、絶望と死と不安と深淵のごとき苦しみにすぎない。・・・・・もし僕らが今日僕らの父の前に立って、その弁明を求めたら父たちは果たしてなんというだろう。この戦争を用意し、僕らに訓令を垂れ、前線に送ってくれたのは父たちなのだから。

 訳者は有名な?秦豊吉。歌舞伎役者・7代目松本幸四郎の甥にあたる実業家・翻訳家・演出家・興行師で、マルキ・ド・サドをもじった筆名「丸木砂土」で小説『半処女』(1932)やエロティック随筆を書きながら、ゲーテファウスト』などの翻訳も手がけた異端人らしい。先の大戦前、三菱合資会社勤務中に『西部戦線異状なし』を翻訳、中央公論社から単行本として刊行しベストセラーとなった。 
 この文庫版の訳文は、押しの強いボス的人物にふさわしく、かなりいい加減なものである。数えきれないほどの乱暴な助詞の使い方は、編集部が秦の権勢に押し切られたのだろうから仕方がないが、文字校正までちゃんとされていないことは許しがたい。10カ所を超える単純な誤植をそのままにして70版も重ねているとは、恥しいことである。

バーバラ・W・タックマン 『八月の砲声』上(ちくま学芸文庫)

 第一次世界大戦西部戦線の激戦地はフランスだった。ドイツは150万の全軍を7軍に分け第1・第2・第3の主力3軍団をベルギー経由で反時計回りに動かす「シュリーフェン計画」をもってパリを攻略しようと考えていた。一方フランスは同じ150万を5軍に分け、第1・第2の主力を東部のアルザス・ロレーヌからこれも反時計回りに動かすという「第17計画」でドイツを南からつこうとしていた。この本では1914年の8月、開戦直後のフランス北方戦線における圧倒的なドイツ3軍団の進撃、それに立ち向かうベルギー軍のたった7個師団の果敢な反撃と無残な敗北、ドイツによるヨーロッパの支配を食い止めなければならない英仏必死の協力体制構築などが詳細に描かれる。

 この本は戦争小説でもなければ、各国の戦時体制のルポルタージュでもない。前線の戦闘シーンはまったく描かれず、後方の市民生活の模様も臨場感を持って書こうとはしていない。訳者あとがきによれば著者バーバラ・W・タックマンは伯父がフランクリン・ルーズベルト政権の財務長官を務めたという名門ユダヤ実業家系の女性で、若い頃から欧米有名評論誌の特派員記者としてヨーロッパ各国の政治・社会レビューを書き続けた人らしい。

 著者が上巻のどこかで言っているように、ヨーロッパでは古代・中世以来、いまからちょうど100年前の第一次大戦まで、戦争はつね日頃の国内外政治の延長線上で、いつでもどこでも起こりうるものだった。(すくなくとも先進国の)今と違って、国内外の政治は当時の社会上層の個人集団の戦いだったから、戦争にもその国内の闘争が色濃く反映していた。ちょうどアラブとアフリカで起きている争いが、それは国家間の戦争なのか宗派間の闘争なのか部族同士の殺し合いなのか、外側からでは簡単に決められないのと同じ状態が100年前まではヨーロッパにもあったということである。

 著者は上流ユダヤの人らしく、<A国の皇帝とB国の王とC国の陸軍元帥はしかじかの縁戚関係にあるので、現在の国内政治的立場にもとづく公式声明と縁戚関係からくる本音には若干ねじれたところがある>といったことをいたるところで書いている。このことが本書を、小説でもなくルポルタージュでもなく歴史書でもない、曖昧なものにしている。
 しかし本書は1962年にアメリカで出版され、ベストセラーになったらしい。翌年のピューリッツア賞(歴史部門)を受賞している。先祖の故郷が起こした第一次大戦を、ふつうの「戦争もの」としてでなく、支配階級の「個人集団の戦い」として捉えることは、アメリカの読書階級にとって新しい魅力だったに違いない。

 次に書き抜いたヨーロッパの王室の血縁関係は、すさまじいというか、人間の一方の欲望の象徴として、みごとなものだ。この構図の中では、1914年6月のオーストリア皇太子暗殺事件などは、飢えたイヌの群れに「それっ!」と投げ与えられた生肉にすぎなかった。大国の王と元帥には願ってもなかなかやってこない開戦の口実が突然天から与えられたのだから。

 p30-1
 1910年の英国王エドワード7世の葬儀に列席した各国代表の数は史上空前だった。エドワード7世はよく「ヨーロッパの伯父」と呼ばれた。ヨーロッパ各国の王室に関するかぎり、これはぴったりのあだ名だった。エドワード7世はドイツ皇帝ヴィルヘルムの叔父だったばかりでなく、王妃アレクサンドラの姉がロシアのマリー皇太后だった関係で、ロシア皇帝ニコライ2世の叔父でもあった。
 王の姪のアリックスはニコライ2世の皇妃で、王女モードはノルウェイ王の妃、もう一人の姪はスペイン王の妃だった。三番目の姪マリーは王の死後間もなくルーマニアの王妃になった。エドワード7世の王妃の実家デンマーク王室はロシアのニコライ2世の母やノルウェイギリシア王も出している。またヴィクトリア女王の9人の王子、王女の子孫は各親等にわたりヨーロッパ中の王家に入り、英国王室とは親戚関係にある。

白井聡 『永続敗戦論』(太田出版)3/3

p167-9

昭和天皇が吉田内閣を飛び越して、米軍の日本駐留継続を直接訴えかけた

 1996年、豊下楢彦は著書『安保条約の成立――吉田外交と天皇外交』によって、それまで広く共有されてきた歴史認識を大きく更新した。共有されてきた歴史認識とは 「1951年の安保条約は米国が圧倒的な国力差を利用して、米国の利害を日本に押し付けたものである」というものである。それが更新された。
 豊下の研究は、天皇制の存続と平和憲法(その裏面としての米軍駐留)という戦後レジームの二大支柱はワンセットである、という従来から意識されてきた統治構造の成立過程を白日の下にするものであり、その過程において昭和天皇が「主体的」に行動していたことをはっきりと示すものであった。

 豊下によれば、当時の外務省は決して無能ではなかった。外務省は安保条約が極端に不平等なものにならないようにするための論理を吉田首相のために用意していた。しかしそれにもかかわらず、吉田の日米安保交渉は拙劣なものになってしまった。それは、ほかならぬ昭和天皇(および近衛文麿らの側近)こそが、共産主義勢力の外からの侵入と内からの蜂起に対する怯えから、自ら米軍の駐留継続を希望し、ダレス国務長官と接触するなど具体的に行動したからである。
 日米安保条約締結交渉にあたって決定的な重要性を帯びたのは、日米のどちらが米軍の駐留を「希望」するか、であった。無論、「希望」を先に述べた側が、交渉における主導権を相手に渡すこととなる。したがって、外務省と吉田首相は、朝鮮半島情勢の切迫を背景に、米国にとっても軍の日本駐留が死活的利害であることを十分に認識したうえで、「五分五分の論理」を主張する準備と気構えを持っていた。
 そのところへ、(外交経験などあるはずもない)昭和天皇がときの首相吉田やマッカーサーを飛び越してまで、米軍の日本駐留継続の「希望」を訴えかけてしまった。そしてもちろん、「五分五分の論理」という立場は放棄されてしまった。その結果、1951年の安保条約は、ダレスの最大獲得目標だった「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を保障した条約」として結ばれることになった。また、これらの過程で、沖縄の要塞化、つまりかの地をふたたび捨石とすることも決定されていった。
 要するに、昭和天皇にとっては安保体制こそが戦後の「国体」として位置付けられたのだ。そしてこのとき、永続敗戦は「戦後の国体」そのものとなった。

p171

感激の内に犠牲を強いた<国体>を自分で壊してしまった

 戦前には治安維持法によってその変革を試みようとするものは死刑に値すると定められていた「国体」とは、そもそも一体何であるのか。戦前、特異な国体論を展開した里見岸雄が、吉田茂も決して触れようとしなかった国体の核心を赤裸々に抽出していることを、片山杜秀が紹介している。
 片山の整理に従えば、里見は国家社会を二つに分類している。ひとつめは「利益社会」で、世間一般の欲望・欲求を追究する社会である。里見は言う。しかし、国家が存続するためには、そうした欲望・欲求を捨ててまですすんで国家を護ろうとする動機が国民に湧かなければならない。それを作り出すのが、最高の統治者でありながら決して威張ることなく、皇祖皇宗・天照大神に頭を垂れる謙虚な君主=天皇に対する臣民一同の<感激>である。この<感激>が高まることにより、この素晴らしき世界=を、自分の命を捨ててでも護りたいという動機が生じる・・・。
 そして、敗戦によって途方もない打撃を受けたのは、この<感激>にほかならなかった。その中心には、まぎれもなく、昭和天皇の言動がある。それは、<感激>の世界の中心にいるのが、「内外の共産勢力」にひたすら怯える生身の人間であった以上、当然のことであった。

白井聡 『永続敗戦論』(太田出版)2/3

p130-3 

TPP交渉における従属構造

 1970年代から基本的には衰退し始めた米国経済は、市場経済新自由主義化と金融バブル許容化によって延命を図ってきた。TPP戦略はその戦略のひとつである。多数の識者が指摘するように、保険・医療・金融・農業といった諸分野における米国主導のルール設定という露骨な帝国主義的策動がTPPの枠組みに含まれていることは、急速に明らかになりつつある。
 こうした情勢に対して日本の政財界はどのような姿勢をとっているだろうか。たとえば、日本最重要産業の一つである自動車産業の指導者層のふるまいは、ほとんど戯画的とも言える印象を与える。そのなかで(生まじめ三代目顔のトヨタ社長が代表を務める)日本自動車工業会は日本のTPP参加を声高に唱道したものだが、こうした日本側のお追従姿勢が明らかになるや否や、米側から飛び出してきたのは、「日本の軽自動車規格は参入障壁であるから廃止せよ」という(チンピラ映画のような)言いがかりだった。
 日本における自動車の輸入関税はゼロであり、市場が閉鎖的であるとの批判は全く当たらない。現にドイツ車はその高額さにもかかわらずよく売れており、米国車のシェアが低いのはその品質、デザインのせいであることは明らかである。米国のメーカーが軽自動車を開発しようとしても、ノウハウがないため作れないのはやらずともわかることであり、それゆえアメリカの交渉団は「われわれが上手く作れないのはその規格が間違っているからだ」という無茶苦茶な理屈を考え出したわけである。さすがにこの要求は2012年に取り下げたが、こうした無理無体が公に表明されること自体が、TPPの本質を物語るものだろう。

 TPPにおいて、米国は「新しい自由貿易のルール」を自分の主導でつくろうとしている。その「自由貿易」化の、いかにもアメリカらしいものの一つが遺伝子組み換え作物である。TPPによって「遺伝子組み換え作物の表示義務」の撤廃をさかんに働きかけているのは、同作物の生産において90%という圧倒的なシェアを誇るモンサント社ミズーリ州)である。同社は、過去にはベトナム戦争時に枯葉剤を開発したことでも悪名高いが、今日では「種子の独占」を謀る企業として世界的な非難にさらされている。
 すなわち、同社は、自社が開発した遺伝子組み換え種子に知的所有権をかけ、農民が自分の収穫の中から保存した種子を翌年播種することを禁じた。さらにモンサント社は、ご丁寧にも「ターミネーター種子」を開発し、農家が自家採取した種子の播種を永久に封じようとしている。なぜなら「ターミネーター種子」とは、遺伝子を組み替えることで種子が発芽しないよう作為的に改造された種子だからだ。もちろんその狙いは農家がモンサント社から毎年種子を買い付けなければならない状態に追い込むことにある。

 ・・・とは言え、異見を出す多人数との公式交渉が苦手なトランプは、選挙前からの公約通りTPPの枠組みを崩してしまった。自分が得意だと思っている水面下取引のような二国間交渉で、自国の利益貫徹を図れると思っているのだろう。

白井聡 『永続敗戦論』(太田出版)1/3

 衆愚政治のまんなかにいる安倍晋三とその一派への怒りを、気鋭の政治思想家・白井聡がマジになって書いた。2013年のベストセラーになった。
 白井の「永続敗戦」とは、①事あるごとに「戦後民主主義」に対する不平を言い立て、戦前的価値観への共感を隠さない政治勢力が、国内とアジアに対しては自分たちの恥ずべき歴史事実を否認しながら、②自分たちの勢力を容認し支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続け、③いっぽう国民の方でもそのような政権の姿に満足を表明しているーーそのようなマスタベーション状況を指している。
 本来なら米国は、日本に対して2発の原爆を落とし、ポツダム宣言による日本支配を主導し、東京裁判の首席検察官を出し、沖縄を米軍施政権下に置くサンフランシスコ講和条約を取り仕切った国である。戦後民主主義に不平を言い立てるなら、それを持ち込んだ米国に文句を言ってみるのが筋である。ポツダム宣言東京裁判サンフランシスコ条約を一方的であるといって否定しなければならない。しかし彼らは、いうまでもなくそのような「蛮勇」を持ち合わせていない(p48)。
 国全体のマスターベーション状況は、死刑に処せられるべきA級戦犯を神としてあがめることによく現われている。これらのA級戦犯東京裁判で「自分たちは時の勢いのしからしむところに従ったまでであって、個人の意思として犯罪行為を遂行したのではない」と口をそろえた。アイヒマンニュルンベルグ裁判で「自分は命令に従ってやったまでだ。他のドイツ国民のだれが自分の立場になっても、だれもがおなじことをしただろう」と言い放ったのと全く同じ言い分である。しかしヒトラーは自殺し、アイヒマンは15年間アルゼンチンに逃げたがイスラエル情報部にとらえられ絞首刑になった。
 ナチズムは言い逃れのできない<悪>であることが全地球的に合意された。ナチズムがどこかの教会で赦免され、政府首脳や議員団に礼を尽くして拝されるというのは聞いたことがない。
 欧米諸国はとりあえず自分たちの国とは関係が薄いから、靖国問題に強い興味を持っている態度を示さない。しかしアジア諸国にとってみれば、自分たちを踏みつけにした当の本人が神としてあがめられているのは、自分たちを今でもバカにしているのと同じことである。米中会談で中国がこのことを米国大統領に真顔で言いだせば、米国大統領は日本に何もしないわけにはいかなくなる。戦前的価値観への共感を隠さないアナクロ政治勢力の知性とは、この簡単なことにさえ想像がおよばないお粗末なものである。

 p38-42

 2009年、有権者の圧倒的な指示を受けて成立した民主党鳩山政権は、普天間基地移設問題において事態を打開できず、わずか9か月で退陣に追い込まれた。このときメディアでは「首相の政治手腕の巧拙」という問題ばかりが報じられた。確かに、「最低でも県外」と当初は宣言しながら、最終的には「沖縄に米軍基地があることによる総合的な抑止力を確信するにいたった」という迷言を発することになった鳩山の迷走ぶりは非難に値する。
 しかし、こうした政治家個人の手腕の拙劣さに議論を収斂させることは、問題の著しい矮小化以外の何ものでもなかった。退陣劇を通して露呈したのは、この国においては選挙による圧倒的な支持を取り付けている首相であっても、「国民の要望」と「米国の要望」の二者択一を迫られた場合は「米国の要望」をとらざるを得ない、という客観的な構造にほかならない。
 ・・・これは驚くべき事柄だろうか?断じてそうではない。かかる政治のあり方は、戦後の東アジア親米諸国(韓国、台湾など)の政治史と比べて、なんら異様なものではない。韓国や台湾では権威主義的で暴力的な反共政権が長きにわたって統治した。韓国で議会制民主主義が根付くのは1980年代末であり、台湾で一党独裁が終わったのは1996年である。それは、それらの地域が冷戦構造における真の最前線であったがゆえに、政治権力・体制にデモクラシーの外観を纏わせる余裕など、いささかも存在しなかったからである。
 つまり、明らかになったのは次のような事実である。すなわち、戦後日本においてデモクラシーの外皮を纏う政体がとにもかくにも成立可能であったのは、日本が冷戦の真の最前線ではなかったために、米国は日本に少々の「デモクラシーごっこ」を享受させるに足るだけの地政学的余裕が生じていたからにほかならない。

丸山真男 『「文明論の概略」を読む』中(岩波新書)2/2

第11講 徳育の過信と宗教的狂熱について

p213-18

宗教的狂信の精神構造

 ギゾー『ヨーロッパ文明史』とともに福沢の『文明論之概略』の思想的下敷きとなったバックル『イングランド文明史』のなかで、バックルはフランス、スペインでの宗教裁判、異端審問のことを詳しくとりあげ、福沢に強烈な印象を与えています。バックルが述べているのは、真摯な信仰からいかなる悪事が生まれるか、まったく善意の有徳な宗教者がいかにその狂信にもとづいて恐るべき迫害を行ったかということでした。誠心誠意、真正な宗教を広め、これを妨げる「邪教」を退治しようとする結果、宗教的なファナティズムが生じて恐るべき残虐が行われる。
 日本にはヨーロッパに比べられるような宗教戦争がないものですから、福沢は同時代に近い水戸藩の党争の例を出します。水戸藩の党争では学派の争いと政治的な争いが結びついていましたから、ヨーロッパでの宗派の争いと政治的な争いに近い例と思ったのでしょう。
 水戸藩でははじめは立原翠軒派と藤田幽谷派が水戸学の中で分かれて争ったのですが、のちに天狗党の段階になると、もはや学派的論争でなく、幕末の政治情勢もからんで、天狗党の乱の鎮圧の後も、いや大政奉還になってからでも、凄惨な抗争がくり返されます。互いに自らを正党とし相手を姦党と決めつけて武闘を展開し、たいへんな犠牲者を出してしまう。
 水戸藩は、尊王攘夷論の全国的パイオニアの役割を果たし、吉田松陰も水戸に来て会沢正志斎に会い、教えを請うたほどです。それなのに維新後は政治的指導者に見るべき人材がまったく出ていない。幕末の抗争でほとんど殺されてしまったのです。この水戸の抗争は、現代のセクト間の、いわゆる内ゲバの原型をなすものです。政治や学問が宗教化することによって狂信が昂進するという恰好の事例だといえます。
 学問上の争いと政治上の争いがいっしょになるとひどい結果になる。トライ・アンド・エラーと反対に、誤謬は許すべからざる悪となるからです。誠心誠意で真理を広めようとすることから狂信が生まれ、おそるべき迫害が出てくる。これは、マルクス・レーニン主義の党と国家の問題にもまっすぐ通じる生々しい事実です。

 

第13講 どこで規則(ルール)が必要になるか

p290-1 経済道徳とルール

 福沢は西洋の経済道徳について、国民のルール感覚との関係を述べています。この経済道徳の低さも、福沢が当時の日本について痛切に感じていたことの一つです。
 <目前の小さき利のために廉恥を破ることあり。たとえば生糸蚕卵紙を製するに、不正を行ふて一時の利を貪り、ついに国中の生糸蚕卵紙の値を落として全国の大利を失ふごときは、面目も利益もあわせてこれを棄つる者なり。これに反して、西洋諸国の商人は、取引を確かにし、方寸の見本を示して数万反の織物を売るに、かつて見本の品に異なることなし。これを買ふものも箱の内を改むることなく、安心して荷物を引き取るべし。>
 生糸蚕卵紙の話は、ウェーバー流に言えば、蔑まれた古代―中世ユダヤ人のパーリア(賤民)資本主義の典型例になります。商人は、士農工商といわれるように、時代の価値体系の中で一番低いところに位置付けられてきた。それを逆手にとって、「どうせ自分は賤しい身分なのだから」と、金儲けのためには手段を選ばないという破廉恥な利潤追求の態度が出てくる。もちろん一般的な傾向の話であって、商人のエートスがまったくなかったわけではありませんが、これがいわゆる町人根性です。
 イギリスではジェントルマン、フランスではシトワイアン(公民)、アメリカではコモン・マン(普通人)というのが、それぞれの国の典型的人間像ですね。外国では日本人でそれにあたるのはサムライなのです。これを逆にいえば、日本の町人階級は、江戸時代にあれほど富を蓄積し、江戸や大坂で繁栄を極めたにもかかわらず、ついにブルジョワジーとしての自国の典型的人間像になれなかった。それで今にいたってもサムライが典型的日本人像として通用している事態を生んでいるわけです。ついでにいえば政治権力に寄生する「政商」というのは賤民資本主義の一変種です。

丸山真男 『「文明論の概略」を読む』中(岩波新書)1/2

 第8講 歴史を動かすもの

 中巻 p49-51 p58-9

 福沢は言います。<古より英雄豪傑の士君子、時に遇ふ者、極めてまれなり。・・・・孔子も時に遇はずと云ひ、孟子もまたしかり。道真は筑紫に謫せられ、楠正成は湊川に死し、これらの例は枚挙にいとまあらず。>
 孔子孟子菅原道真も時に遇はずという、その「時」とはいったい何なのでしょうか。福沢はすぐにこう続けます。<孔孟の用いられざるは、周の諸侯の罪に非ず。諸侯をして之を用いしめざるものあり。楠氏の討死は後醍醐天皇の不明によるにあらず、楠氏をして死地に陥らしめたるものは別にあり。すなはち(王室を政権の主体としては見放しつつある)当時の人の気風なり、その時代の人民の知徳の有様なり。>
 孔子孟子菅原道真や楠正成が「時に遇っていなかった」のは、彼らの(思考を含めた)行動様式がその時代の人民の知徳の有様、その時代の「文明の精神」に適合していなかったからだと言うのです。だから「後醍醐天皇もとより正成の功を知らざるにあらずといえども、人心に戻りてこれを殊勲第一の列に置くをあたわず。・・・正成は尊氏と戦ひて死したるにあらず、時勢に敵して敗したるものなり」。

 では、中国の本人たちに自分の不遇を嘆かせ、日本でも道真の左遷や正成の戦死の遠因となった孔孟の教えのどこが根本的に間違っていたのか。この章では儒学の「政教一致」の基本が批判されます。
 儒教政教一致思想は、第一に<君主制以外の政治形態を知らない>古代中国の事態を前提にしていますし、第二に<学問と道徳が未分化>であることを自分たちは意識しておりません。この二つの前提が重なってはじめて、「教え=治者」→「学び=被治者」、という教育・統治に関する上からの一方通行的な儒教徳治主義の論理構造ができあがります。この点をしっかり押さえておかないと、福沢の政教一致批判は正しく理解できません。
 この「教え=治者」→「学び=被治者」の構造によるならば、「教える治者」は「学ぶ被治者」の質問に対して、正しい「道」を指し示さなければなりません。しかし、孟子が戦国時代の勝の悩める文公に 「勝は小国なり。斉楚にはさまれり。斉に仕えんか、楚に仕えんか」 と問われたとき、孟子は思わず地金を出してしまいます」。「その謀はわが能く及ばざるところなり」と答えてしまったのです。『孟子』に出ている有名な話です。
 もちろん福沢は「孟子には名策がなかったのだ」と嘲弄的に述べています。孟子はなぜそういう返事しかできなかったのか。
 福沢の基本理念は、孔孟のような大思想家とか大学者はたとえ政治の問題を論ずる場合でも長期的な視野と展望に立つべきで、その時々の時局状況に自分の理論を短絡させるべきではない、ということです。ところが孔子孟子は「終身、現実政治の範囲に籠絡せられて」、統治者のコンサルタントとか高級官僚になろうと諸国を遍歴していた。そういう世に入れられない、「やむなく官途に就かないでいる」という生き方の人に、理論や哲学のあり方を考えられないのは当然だ、とまことに厳しく突き放しています。