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池澤夏樹 双頭の船 新潮文庫

 11年3月11日の震災後。被災地で実際あったかどうかはわからない出来事を描いた半ユートピア?小説。 

 地震の後、ある港に数百トンのフェリーがほぼ無傷で残った。そのなかに数十戸の、陸地に作ったミニ仮設より少しはましな仮設住宅が作られ、人々が震災前の仕事をしながら暮らしを戻し始める。 

 そのうちに、このフェリーを使って大洋に乗り出し、世界の好きなところに出て自由な暮らしを始めようという人たちが何家族か、少数派だが出てくる。もちろん多数派は、このフェリー住宅を出て元の陸地に戸建て住宅を建て、以前の生活を完全復旧させようとする、資金も少しはある堅実な人たち。

 この二つの派には一人ずつ頭目がいて、じっくりと議論を繰り返す。だから「双頭の船」。「自由航路主義」の船はいったん港を出て新天地を目指すのだが、最後には港に戻り「陸地化」することで物語は完結する。多くの議論も含めて、漂いに漂う人たちがしっかり陸地に根を下ろすことで、自由への「神話」は円満な形で閉じられる。吉村萬壱の「ボラード病」にあった、震災被災地のディストピアなどは一切語られないが、池澤が時々書く(この場合は改造フェリーを使った)波乱万丈の海洋スペクタクルでもない。

 

内田樹・白井聡 『日本戦後史論』 朝日文庫

内田樹 ある国の中にあるカウンターカルチャーって、その国と政治的に対立している国からすると、唯一の「取り付く島」なんですよ。だから、外交的に言うと、どんな国にも反権力的な言説とか芸術があった方がいいんです。ですからアメリカの場合、あれだけでかくて人口も多いわけですから、カウンターカルチャー側に立つ人も多いわけですね。ベトナム戦争から後のアメリカが、それでも国際的な威信をあまり失わずに済み、世界中のイノベーティブな若者たちを結集することができたのは、アメリカ国内に反権力文化、カウンターカルチャーが数多くあったからでしょう。

ドナルド・キーン 『日本の文学』(吉田健一訳) 中公文庫

第四章  日本の小説 源氏物語(p102-7)

 一九二五年にウェーリの訳による源氏物語の第一巻が出たとき、欧米の批評家たちはその規模が雄大なのと、そこに窺われるそれまで想像もしなかった世界に圧倒された。そして彼らにもっとなじみがある文学で、これと比較できる作品を血眼になって探した。いわく『ドン・キホーテ』『デカメロン』『ガルガンチュア物語』『アーサー王物語』……要するに『源氏物語』は欧米で書かれた大概の小説の名作に擬せられたのだった。

 しかしどう検討しても『源氏物語』はこれらと違っていた。『源氏物語」は、その構想が大規模であるのと手法がしっかりしている点で、確かに日本の文学の中で異色の作品であるが、これは同時に、明らかに欧米の批評家にはなじみが薄い純粋な日本の伝統の産物だったのである。  

 『源氏物語』は刊行以後七、八百年にもわたって、天皇やもろもろの貴族、和歌や漢詩儒学国学など日本ならではの学者・文学者に影響を及ぼし続けた。今現在においても、もっともすぐれた小説家と言えるかもしれない谷崎潤一郎も、この影響を免れてはいない。 

 『源氏物語』は中に多くの滑稽味もあり、そうした点でも十分に魅力があるものであるが、全体の調子は暗い。これは主に、そういう時間の経過に対して人間が無力であることが強調されているためである。それはワットーの絵のあるものに似ていて、そこに描かれている女とその恋人の美しい情景の背後に、我々は何か壊れやすくて悲痛なものを感じないではいられない。

 この哀調は『源氏物語』ではあまりに顕著なので、『源氏物語』の読後感を一言で述べよといわれると、おそらく大半の人はこの哀調のことを挙げるはずである。

池澤夏樹 きみのためのバラ 新潮文庫

 三十ページほどの短編が八篇収められている。三篇目の『連夜』が面白かった。総合病院の内科医ノリコ先生と、院内各部署に医薬品などを届けるアルバイトの斎藤くんだけが登場人物。 

 もともと二人は何の関係もない人間だった。ある日その斎藤くんがノリコ先生から「今夜食事でもしない?」と声を掛けられ、斎藤くんはびっくりする。そしてぎこちない食事が終わると「うちに寄ってコーヒー飲んでいかない?」と誘われる。緊張したコーヒーも飲み終えると、今度は「こういうことってすごく言いにくいんだけれど、このまま今晩泊まっていかない?」となった。

 ノリコ先生は美人ではないし、口の利き方もぶっきらぼうだが、患者には評判のいい、優秀な医者だった。 先生のセックスは激しかった。そしてお誘いは一晩だけのことではなかった。なんと十夜にわたって二人の逢瀬は続いた。

 ところが十一日目の夜、いきなり「斎藤君、これでおしまいにしよう」と突然言い出された。ノリコ先生はこう言った。「自分たちは、年齢のこともあるしこれから毎晩愛し合ってはいけない。愛でない以上、関係は長くは続かない。続けるべきではない。いずれは傷つけあう。そうなることが二人とも分かっているのだから、それぞれ一人に戻った方がいい。」

 僕はおっしゃることはよくわかります、と言ってしまった。「ただ、僕としては目の前にいるこの人にもう触れられなくなる、というのが現実としてとてもつらいです。ぼくはこれから毎晩寂しく一人で寝なければならない、その覚悟が今はまだできていない。そのことがつらい‥‥」でも先生の気持ちが固かったから、車の後部座席で抱き合って名残を惜しんで、南風原の家の近くまで送ってもらって、車を降りたら、それで本当におしまい。 

 その後は院内で会っても、もちろん知らん顔。でも、それから一か月ほどした時のこと、たまたま今の会社が蘭をバイオで育てるという計画を立てているという話を聞いて、東京の農大を出たバイオの専門家だって売り込んだら、見習いみたいな形で就職できるようになって、病院ともノリコ先生とも物理的に別れることができた。

 あとから一度だけノリコ先生から手紙が来たことがあった。 

 斎藤君 元気ですか?花を作る新しい仕事がうまくいっているらしいという噂を看護婦たちから聞きました。よかったね。わたしは心から喜んでいます。だってあなたは私にとって、ここ沖縄の古い歌で言う、送られた人の心と体をきれいに飾る花を、十日間も毎日持ってきてくれた「花の係」の若者だったのですもの。

結城昌治 『軍旗はためく下に』 中公文庫

 1940年、米軍の圧倒的な戦力の前でボロボロ、ちぎれちぎれになっていたフィリピン戦線での日本軍旗。しかしその旗の下で、東条英機が作った「戦陣訓」だけは当初の苛烈さを失っていなかった。いやますます、上層部の作戦の愚劣と暴行の数々には甘く、末端兵士のまずい挙動の端々を問う軍法会議の判決の厳しさが、本書を読む人の心を青黒く染めるようになっていく。

 その事例が五つの篇になって淡々と記されている。例えば第一話・敵前逃亡。あまり出来の良くない伍長が占領地で女ができて、そこに通っていた時の帰路、敵に遭遇し負傷して捕虜になり、脱走して三日後自隊に帰ったが、敵に走ったとみなされて死刑になり、即執行される。

 また第五話。粗暴で嗜虐的な小隊長がいた。食糧事情が極端に悪くなり、兵はすべて自作の農園で取れた野菜で飢えをしのいでいた。しかし空腹のあまり、小隊長の畑の芋を盗み食いする兵がいた。すると、フィリピンの炎天下、小隊長は罰則としてその兵をドラム缶の中に入れてふたを閉め、数時間放置。被害者は全身火ぶくれになって死んだ。判決では小隊長の暴虐は無視され、逆にすきを見てこの小隊長を殺した兵士三人は情状酌量の余地なく死刑。こんな話が240頁にわたって続く。

 中に一つ、面白いと言っては語弊のある残酷話もあった。毎日殴られどおしの兵が、ある日すきを見てその上官を銃の台尻で殴り殺し、野豚の肉だとして焼肉にして部隊に持ち帰り、兵隊全員で大歓迎された。この場合上官を殺して食ったことは誰にも漏れていないから、法廷は開かれなかった。大岡昇平も『野火』の中で暗示しているが、極限状況の中で、こういうことは絶対にあったはずだと、僕は思っている。

宇野千代 『或る一人の女の話 刺す』 講談社文芸文庫

 「或る一人の女の話は」は主人公・一枝の男性遍歴の話。「世の中の人は私の男性遍歴、男性遍歴というが、それは大間違いである。男性遍歴どころか、私は男性に捨てられて捨てられて、失恋し通しで生きてきたのである」と彼女は「解説」で言っている。「私はどこまでも男の作った「女」の世界に残っている。ときどき人を愛し、救け、喜ばせてきたが、私のしてきたことはどこまでも子供らしく女らしいものにすぎない」とも。

 一方「刺す」は男女が入れ替わって、愛する夫が女性遍歴を繰り返して、最後は目の前で家を出ていく話。男の生き方の、女の生き方とはちょうど逆になる「抽象性」に理解を示し、若い女をとっかえひっかえしながら最後は大量の本だけをもって出て行く男を「行ってらっしゃい」と送り出す。「或る女」と逆の世界観を持っているように見えるが、この「刺す」女も男の作った世界に生きていることは同じで、世間という舞台上での所作だけが逆転しているように見えるだけである。

司馬遼太郎他 古代日本と朝鮮

日本の中の朝鮮文化  

黒潮と日本文化 

岡本太郎 例えば伊勢神宮は、そもそも日本の皇室だけのものではないのではないか。沖縄のシャーマニズムと同じものなのじゃないのか。このあいだ式年遷宮をやったけれども、古い本殿の下には大きめの石ころだけがあった。沖縄のウタキと同じものだと思う。それがある時期から皇室の専有物になっただけの話なのじゃないか。 

司馬遼太郎 石ころが地面からちょっと出ている。いかにも南方の古代信仰の匂いだね。  

岡本 それから、先日NHKふるさとの歌まつり」というので秋田の男鹿半島の歌をうたっていたんだが、聞くとまったく朝鮮の歌だ。朝鮮の人の乗った船が黒潮の支流である対馬海流にのってしまって、裏日本のずっと北の方まで行ったんじゃないかしら。 

司馬 朝鮮というより、北部朝鮮を含めたツングース族の歌の感じじゃないかな。

 

平安初期、有力氏族の三分の一は渡来系だった 

上田正昭 『新撰姓氏録』という平安初期にできた書物がある。当時の平安京と周辺五畿内の有力氏族1182氏の系譜をまとめたものだ。それを神官系、皇族系、渡来系の三つに分けて編纂しているのだが、その中で渡来系の氏族がなんと全体の三分の一近くを占めている。

 調べられた氏族は当時の上層階級だけだから、それ以外の中下層階級も入れれば、いかに渡来の人々が多かったかが想像できる。  

司馬 万葉歌人山上憶良も朝鮮からの帰化人だった。父親が渡来人だった。その憶良が遣唐使の一行に秘書官として随行している。そのころの遣新羅使遣唐使のメンバーには、渡来系のメンバーがずいぶん加わっていたようだ。

 

関東地方にも渡来人の足跡は数え切れず

金達寿 ぼくはいま東京の調布市に住んでいるが、このあたりに渡来人が多くいたことはたくさんの資料や証拠がある。この「調布」という地名すら渡来人と深いかかわりがある。調布は多摩川の川べりにある街だが、川べりだからむかしはたくさんの麻が生えていた。その麻を渡来人が刈り取って麻布に織り、それでもって「調」という税金を現物納付した。これが調布という地名のもとになったのだ。

 近くには厳島神社というのもあって、やはり渡来人である金子氏の祖先が祭られている。また、2,3キロ歩くと高麗神社という社があるが、ここには(高麗国ではなく)高句麗国の貴人の廟が今も残っている。