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池澤夏樹 きみのためのバラ 新潮文庫

 三十ページほどの短編が八篇収められている。三篇目の『連夜』が面白かった。総合病院の内科医ノリコ先生と、院内各部署に医薬品などを届けるアルバイトの斎藤くんだけが登場人物。 

 もともと二人は何の関係もない人間だった。ある日その斎藤くんがノリコ先生から「今夜食事でもしない?」と声を掛けられ、斎藤くんはびっくりする。そしてぎこちない食事が終わると「うちに寄ってコーヒー飲んでいかない?」と誘われる。緊張したコーヒーも飲み終えると、今度は「こういうことってすごく言いにくいんだけれど、このまま今晩泊まっていかない?」となった。

 ノリコ先生は美人ではないし、口の利き方もぶっきらぼうだが、患者には評判のいい、優秀な医者だった。 先生のセックスは激しかった。そしてお誘いは一晩だけのことではなかった。なんと十夜にわたって二人の逢瀬は続いた。

 ところが十一日目の夜、いきなり「斎藤君、これでおしまいにしよう」と突然言い出された。ノリコ先生はこう言った。「自分たちは、年齢のこともあるしこれから毎晩愛し合ってはいけない。愛でない以上、関係は長くは続かない。続けるべきではない。いずれは傷つけあう。そうなることが二人とも分かっているのだから、それぞれ一人に戻った方がいい。」

 僕はおっしゃることはよくわかります、と言ってしまった。「ただ、僕としては目の前にいるこの人にもう触れられなくなる、というのが現実としてとてもつらいです。ぼくはこれから毎晩寂しく一人で寝なければならない、その覚悟が今はまだできていない。そのことがつらい‥‥」でも先生の気持ちが固かったから、車の後部座席で抱き合って名残を惜しんで、南風原の家の近くまで送ってもらって、車を降りたら、それで本当におしまい。 

 その後は院内で会っても、もちろん知らん顔。でも、それから一か月ほどした時のこと、たまたま今の会社が蘭をバイオで育てるという計画を立てているという話を聞いて、東京の農大を出たバイオの専門家だって売り込んだら、見習いみたいな形で就職できるようになって、病院ともノリコ先生とも物理的に別れることができた。

 あとから一度だけノリコ先生から手紙が来たことがあった。 

 斎藤君 元気ですか?花を作る新しい仕事がうまくいっているらしいという噂を看護婦たちから聞きました。よかったね。わたしは心から喜んでいます。だってあなたは私にとって、ここ沖縄の古い歌で言う、送られた人の心と体をきれいに飾る花を、十日間も毎日持ってきてくれた「花の係」の若者だったのですもの。