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岡本かの子 生成(しょうじょう)流転 小学館

 近代文学史に新しく残るべき、四六判500ページの長編。初版刊行は2018年、まだ新しい本だ。

 描かれる時代は太平洋戦争で敗戦の色が濃くなりつつあった頃。東京空襲の無残なシーンがかなり出てくるが、岡本かの子はそれ以前、1939年に没しているから、このあたりは夫の岡本一平が出版前にかなり手を入れたのだろう。

 主人公はかの子本人と思われる蝶子と、彼女が子供時代を過ごした自由主義的な男女共学学校の体育教師である安宅先生。そこに、蝶子に奇妙なプラトニックラブを仕掛け、近い将来嫁にもらおうとする資産家の息子である池上、さらに安宅先生に激しい恋心をいだいている学園の植栽管理人・葛岡がからみ、話は複雑に進んでいく。

 蝶子の父は蝶造といい、もともとは東京・日暮里の貧民窟に住む乞食の子供だった。それが祖父と子供だった父が親子で散歩中に、ひょんなことから豊島という大金持ちの目に留まり、子供の蝶造だけが豊島家の子として育てられることになった。

 蝶造は幼少から利発で、成人してから大学教授にまでなったが、元来大酒のみでそのうえ面食いだったから、どこにでもいそうな美人の女に引っかかって、その女を妾にしてしまった。この妾から生まれたのが 蝶子だった。

 蝶子は学校時代を通して、成績もよく運動科目にも秀でた子に育っていった。学校の教員の中で安宅先生という体育の女先生がいた。しばらく体育研究のためフィンランドに行っていた35,6歳の美人教師だったから、学校では目立つ存在で、校長が惚れているとか、スポーツ好きの生徒の父親とのロマンスのうわさも立てられた。葛岡も先生にまつわるうわさ話に悩む一人だった。

 もう一人、蝶子の傍らによくあらわれ、長いページにわたって登場する池上は仏教哲学のようなちょっと変わった話題を蝶子に持ちかける、金に不自由しないボンボンである。池上は蝶子にこんな話をする。

 「蝶ちゃん 君が風邪をこじらせて寝込んだことがあったよね。そして嫌いな粥を食べさせられたときのことだ。

ひと匙 食べては ちちのため

ふた匙 食べては ははのため

 障子の破れ紙を空っ風が鈍く震わす様な声だった。それでいて若い娘の声だった。蝶ちゃん、あんたはあんた自身をまだ知らない。あんたの中に潜んでいる不思議な力があるのをまだ知らないんだ。……いまの僕の目の前の蝶ちゃんなら、いったん気まずい思いをして別れてしまったら、やがては忘れ去るときも来よう。だがあの呟くような唄を唄った蝶ちゃんなら、どんなに激しい憎み合いをしているときでも、ぼくと蝶ちゃんの心と心の一本の糸は必ず引き合い、また元通りに納まると思うんだよ。会いたいときはいつでも会えて、寂しくはあるが天地の間にたった二人きりの親しい魂と魂であられる気がするんだ。

 このあと蝶子は諸行無常を、人世の矛盾を、生の疲れを突き詰めてみたり、ときにはまったく放擲して忘れてみたりしようとして、東京を逃れて乞食になって旅をする。眠るのは大きな川にかかった橋の下、そこにできた窪地に、着てきたコートを脱ぎ、上着を肩から掛け、横半身を下にして身をカタツムリのようにしながら寒気を防ぐ。いつも同じ場所に寝ていると乞食の親方にいちゃもんをつけられたり、警官の巡視にあわないとも限らないので、ときには町はずれの地蔵堂を借りることもある。朝起きると近くの食べ物屋のゴミ箱に行って、昨夜客が食べ残したものがないか探す。これが結構あるものなのだ。

 朝飯をたべて路上に出ると、いろいろな同業者に出会う。遊郭に入り込んで「一銭頂戴な」とねだる夫婦乞食はその中でも名高い。「あー あー」「うーん」と唖の真似をして哀れを誘おうとする乞食もいる。蝶子は、いくら汚くしていても若い女であることは隠しようもなく、しばらくして乞食社会に慣れてくると、この唖であることが他人に特に嫌がられ、男除けに効果的であることに気が付いた。

 乞食、乞食といっても、皆が皆ろくに学校にも行ったことがなく、世の中のこと、世界のことをまるきり知らない人間ばかりではない。中には「学者乞食・花田」といって乞食仲間の身元素性に詳しいような男もいる。

 あるとき蝶子はその花田から「蝶子さん」と声を掛けられてびっくりする。「蝶子さん、もういい加減マスクを脱いでもいいでしょう。あなたがここにきてから十日もたたないうちに、あなたが贋乞食であることくらい、ぼくは嗅ぎ出しましたよ」。

 この長編小説は、このあたりからエンディングに向かっていく。花田とその友人たちがこの近辺の花柳界・演芸界では有名な滝廼家なにがしとつながりがあり、長年幇間としても名声を得ていたその滝廼家おじさんが蝶子にぞっこんということになってきたのだ。そして大団円まぢかになって、その滝廼家おじさんが本文で五十ページにもなる大ラブレターを送ってくるという仕儀になってきた。

 通俗小説なら、大ラブレターにほだされた蝶子と滝廼家なにがしはめでたしめでたしとなるところだろうが、形而上学が匂う文章も数か所に目立つこの小説では、そうはいかない。蝶子は高名な幇間の熱心な呼びかけにも心動かされることなく、まったく別の人生に向かって自分で生命流転の舵を切っていく……。

(なお、蝶子はその流転の中で、将来岡本太郎を産むのだろうが、この点は一切触れられていない。)