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司馬遼太郎 韓のくに紀行 朝日文庫

 誰もが高校の日本史で習ったように、朝鮮半島には「百済」という国が紀元前後からあって、大化の改新の頃に亡んだ。その百済の南の方に任那という半独立国家みたいな地域があり、主に北九州地方と盛んに人的・物的交流をしていた。日本にも百済任那からの帰化人がたくさんいた。

 ちょうどその頃、半島の東に新羅という大国が勃興して、自分たちの土地を奪おうとしている、何とか助けてくれまいか、というようなことを任那がさかんに言ってきた。半島の鉄器は日本の農機具や武具で不可欠になってきていたから、神功皇后東征伝説みたいなものは、このような雰囲気の中で成立したのではあるまいか。

 ところでここでふと思うのだが、朝鮮人はどこから来たのだろう。

 常識として考えられるのは、農耕者である漢民族があまり入り込んでいなかった旧満州からの南下者だということである。紀元前後に、狩猟とわずかな農耕で暮していたツングース人(固有満州人)が沿海州北朝鮮の海岸線に沿ってやってきたのだ。その言語は漢民族とはまったく違っており、モンゴル語と姉妹関係にあって、同じウラル・アルタイ語族の日本語とは遠い血縁関係にある。その連中がやがて北朝鮮を中心に高句麗国をつくり、韓民族地帯に入って百済国を作ったのだろう。

 彼らは背が高く、目に蒙古ひだを持ち、頬骨の秀でた容姿で、髪は辮髪であったに違いなく、その服装は北方騎馬民族の特徴であるズボンをはいていたと思われる。このズボンははるかな後世、チンギスハンの世界征服によってヨーロッパ全土に取り入れられた。

ジェイン・オースティン 『高慢と偏見』 中公文庫

 200年以上も前の作品において、精細な心理描写の見事な連なりがゆらぐことなく維持され、映像化が現代も相次いでいるというさすがの作品。特に地の文においての、相手が言おうとしていることを事前に読み取り、その裏をかく話し方をお互いに続ける会話の流れの作り方には舌を巻く。

 丸谷才一『快楽としての読書』に誘われて読み始めたが、この660頁の作品は間違いなく読者を快楽に導いてくれる。似たような会話相手との心理描写は、漱石『明暗』でも見られたが、『明暗』のそれは読み手の胃を確実に悪くするようなものだった。

 これが、ロマン主義文学全盛期に書かれた本作では、どれほどくどい心理分析がなされても、読者の心理状態を暗闇の中でグダグダにかき回すようなことはしていない。まだまだよき時代だったころに書かれた、優れた小説は人間をよき状態に持っていけると信じられていた時代の作品である。

 なお、高慢とは富裕な貴族階級の、自分たち以外のもの全てに対する高慢のことであり、偏見とは富裕貴族階級と一般庶民あるいはそれより少し上にいるもの相互の、相手階級への人格的偏見のことを指す。

ヘンリー・ミラーが若いころに読んだ本 ヘンリーミラー全集 新潮社

ヘンリー・ミラーが子供、若いころに読んだ本を順不同で挙げる.

わたしがよんだのは紫色文字の本だけ。)

ニーチェ悲劇の誕生』、ルイス・キャロル不思議の国のアリス』、トーマス・マンヴェニスに死す』『魔の山』『ブッデンブローグ家の人々』、マーク・トゥエインハックルベリー・フィンの冒険』『トム・ソーヤの冒険』、ウィーダ『二つの旗の下に』、ポージャック・ロンドンユーゴーコナン・ドイル、キップリング等の諸作品、カーライル『英雄と英雄崇拝』、エマスン『代表的人物論』、クロード・ホートン『私はジョナサン・スクライヴナー』『道に迷うジュリアン・グラント』『変わらぬものなし』『ヒューマニティ』『ハドソン牧場に帰る』、ディケンズデイヴィッド・カッパーフィールド』、デュ・モーリア『トリルビー』『ピーター・イベットソン』、フローベール感情教育』『プヴァールとペキシエ』、アンドレ・ブルトン『ナジャ』、フレデリック・カーター『黙示録に現れたる象徴』、老子『道徳経』、バルザック『セラフィータ』、ヘルマン・ヘッセ『シッダルタ』

岡本かの子 生成(しょうじょう)流転 小学館

 近代文学史に新しく残るべき、四六判500ページの長編。初版刊行は2018年、まだ新しい本だ。

 描かれる時代は太平洋戦争で敗戦の色が濃くなりつつあった頃。東京空襲の無残なシーンがかなり出てくるが、岡本かの子はそれ以前、1939年に没しているから、このあたりは夫の岡本一平が出版前にかなり手を入れたのだろう。

 主人公はかの子本人と思われる蝶子と、彼女が子供時代を過ごした自由主義的な男女共学学校の体育教師である安宅先生。そこに、蝶子に奇妙なプラトニックラブを仕掛け、近い将来嫁にもらおうとする資産家の息子である池上、さらに安宅先生に激しい恋心をいだいている学園の植栽管理人・葛岡がからみ、話は複雑に進んでいく。

 蝶子の父は蝶造といい、もともとは東京・日暮里の貧民窟に住む乞食の子供だった。それが祖父と子供だった父が親子で散歩中に、ひょんなことから豊島という大金持ちの目に留まり、子供の蝶造だけが豊島家の子として育てられることになった。

 蝶造は幼少から利発で、成人してから大学教授にまでなったが、元来大酒のみでそのうえ面食いだったから、どこにでもいそうな美人の女に引っかかって、その女を妾にしてしまった。この妾から生まれたのが 蝶子だった。

 蝶子は学校時代を通して、成績もよく運動科目にも秀でた子に育っていった。学校の教員の中で安宅先生という体育の女先生がいた。しばらく体育研究のためフィンランドに行っていた35,6歳の美人教師だったから、学校では目立つ存在で、校長が惚れているとか、スポーツ好きの生徒の父親とのロマンスのうわさも立てられた。葛岡も先生にまつわるうわさ話に悩む一人だった。

 もう一人、蝶子の傍らによくあらわれ、長いページにわたって登場する池上は仏教哲学のようなちょっと変わった話題を蝶子に持ちかける、金に不自由しないボンボンである。池上は蝶子にこんな話をする。

 「蝶ちゃん 君が風邪をこじらせて寝込んだことがあったよね。そして嫌いな粥を食べさせられたときのことだ。

ひと匙 食べては ちちのため

ふた匙 食べては ははのため

 障子の破れ紙を空っ風が鈍く震わす様な声だった。それでいて若い娘の声だった。蝶ちゃん、あんたはあんた自身をまだ知らない。あんたの中に潜んでいる不思議な力があるのをまだ知らないんだ。……いまの僕の目の前の蝶ちゃんなら、いったん気まずい思いをして別れてしまったら、やがては忘れ去るときも来よう。だがあの呟くような唄を唄った蝶ちゃんなら、どんなに激しい憎み合いをしているときでも、ぼくと蝶ちゃんの心と心の一本の糸は必ず引き合い、また元通りに納まると思うんだよ。会いたいときはいつでも会えて、寂しくはあるが天地の間にたった二人きりの親しい魂と魂であられる気がするんだ。

 このあと蝶子は諸行無常を、人世の矛盾を、生の疲れを突き詰めてみたり、ときにはまったく放擲して忘れてみたりしようとして、東京を逃れて乞食になって旅をする。眠るのは大きな川にかかった橋の下、そこにできた窪地に、着てきたコートを脱ぎ、上着を肩から掛け、横半身を下にして身をカタツムリのようにしながら寒気を防ぐ。いつも同じ場所に寝ていると乞食の親方にいちゃもんをつけられたり、警官の巡視にあわないとも限らないので、ときには町はずれの地蔵堂を借りることもある。朝起きると近くの食べ物屋のゴミ箱に行って、昨夜客が食べ残したものがないか探す。これが結構あるものなのだ。

 朝飯をたべて路上に出ると、いろいろな同業者に出会う。遊郭に入り込んで「一銭頂戴な」とねだる夫婦乞食はその中でも名高い。「あー あー」「うーん」と唖の真似をして哀れを誘おうとする乞食もいる。蝶子は、いくら汚くしていても若い女であることは隠しようもなく、しばらくして乞食社会に慣れてくると、この唖であることが他人に特に嫌がられ、男除けに効果的であることに気が付いた。

 乞食、乞食といっても、皆が皆ろくに学校にも行ったことがなく、世の中のこと、世界のことをまるきり知らない人間ばかりではない。中には「学者乞食・花田」といって乞食仲間の身元素性に詳しいような男もいる。

 あるとき蝶子はその花田から「蝶子さん」と声を掛けられてびっくりする。「蝶子さん、もういい加減マスクを脱いでもいいでしょう。あなたがここにきてから十日もたたないうちに、あなたが贋乞食であることくらい、ぼくは嗅ぎ出しましたよ」。

 この長編小説は、このあたりからエンディングに向かっていく。花田とその友人たちがこの近辺の花柳界・演芸界では有名な滝廼家なにがしとつながりがあり、長年幇間としても名声を得ていたその滝廼家おじさんが蝶子にぞっこんということになってきたのだ。そして大団円まぢかになって、その滝廼家おじさんが本文で五十ページにもなる大ラブレターを送ってくるという仕儀になってきた。

 通俗小説なら、大ラブレターにほだされた蝶子と滝廼家なにがしはめでたしめでたしとなるところだろうが、形而上学が匂う文章も数か所に目立つこの小説では、そうはいかない。蝶子は高名な幇間の熱心な呼びかけにも心動かされることなく、まったく別の人生に向かって自分で生命流転の舵を切っていく……。

(なお、蝶子はその流転の中で、将来岡本太郎を産むのだろうが、この点は一切触れられていない。)

   

瀬戸川猛資 『夢想の研究』 東京創元社

 1999年にわずか51歳で死んでしまった、丸谷才一言うところの、話の柄がむやみに大きく気宇壮大な論文をサラサラっと楽しそうに書くミステリー評論家にして映画評論家>。瀬戸川猛資はそういう人である。本格的な活字書物は、というのは中に写真やイラストなどをほとんど含まないという意味だが、たぶんこれ一冊だけである。もともとは<ミステリマガジン>に18か月にわたって連載されたもの。

 この本は「想像力」を中核にして、活字メディアと映像メディアの作品を同時に、クロスオーバーさせながら本格的に論じるという、日本ではあまり例を見ないジャンルの作品に仕上がっている。昔から「大人的」想像力を要求してきた活字メディアと、「半分大人」的想像力には強い訴求力をもつ、わずか数十年の歴史しか持たない映像メディア、この二つを同一ページ内で論じれば、これまでの活字メディアによる比較評論では見えてこなかった部分が照らし出されるのではないかと、執筆にあたって考えたそうである。

 本書では、30作ほどの活字作品と、その作品と同じ主題で作られた映画が、1作あたり3~10本紹介され、その作者ないし周辺の映画関係者の、「夢想」ないしは「想像力」が丁寧な分析、評価の俎上にのせられる。文庫で300ページ足らずだが読み応えあり。

 ごく一例ではあるが、日本の映画人には映画の題名なんてどうだっていいと考えている人がいると筆者は言う。

 「彼らはアメリカの小説になぜこれほど頻繁に映画の題名が登場してくるのかを考えたことがあるのだろうか。ついでに言えば、ウィリアム・フォークナージョン・スタインベックスコット・フィッツジェラルドのような大作家が、なぜハリウッドに招かれて脚本やシノプシスを書かされたりするのか、ハリウッド出身のスターがなぜ大統領や大使に選ばれたりするのか、日本の企業がハリウッドの映画会社を買収した際、アメリカのマスコミがなぜ <我々の魂をカネで買った> と大騒ぎしたのかも、よく考えてもらいたいものだと思う。」

 ウィリアム・ワイラー監督の代表作に「われらの生涯の最良の年」がある。これが日本では「人生最良の年」になっていた。これらの映画の題名は、多少の手間をいとわなければ、すぐにも調べがつくものである。映画に関する詳しい知識なんか必要ない。ちょっと文献を探れば、それで済むことだ。

 こういう関係者は、ハリウッドがなぜフォークナーやスタインベックに梗概を書いてもらうほどのことをするのか……映画がアメリカ文化の中心を占めていることを少しは勉強した方がいい。

 最後には活字メディアと映像メディアの詳しい索引がついている。これだけでもありがたい一冊だ。

グレアム・グリーン 『ヒューマン・ファクター』 ハヤカワ文庫

 自身イギリスの諜報部員だった経歴を持つグリーンの二重スパイ小説。「ヒューマン・ファクター」というタイトルがいい。 

 ストーリーは込み入っていて、とてもこの「感想文」で抄説できるものではないが、主人公カースルは南アフリカ駐在時代に情報収集に使っていた反アパルトヘイト活動家サラと恋に落ちる。サラはその時現地活動家と結婚しており、純アフリカ人の子供サムという子供までいた。 

 そのころイギリスでは、英米間情報連絡のカナメの位置にいた情報部の将校が極秘事項をソ連に漏らすという重大事件が起き、カースルに嫌疑がかかる。もともと二重スパイであったカースルは情報を漏らしていないのだが、当局の追及は身辺にまで迫ってくる。カースルは仕方なくソ連に逃れようとするのだが、子供として認知していたサムにパスポートがないため、うまくいかない。 

 ……事件はこんなふうに進んでゆくのだが、この本のいいところは事件の展開だけをクールに進めていくのではなく、カースルと妻サラそしてサムとの心理関係の波の立ちかたにも配慮が行き届いていること、それがカースルの行動にも大きな作用をしていると読者に告げ知らせていることだ。「ヒューマン・ファクター」のタイトルが選ばれたゆえんだろう。

高島俊男 『中国の大盗賊』 講談社現代新書

中国の歴代王朝の創始者は、例外なく、自分の出身地を荒らしまわった「盗賊」・「流賊」が大きくなったものだという考え方で、一冊を通している。これは世界的定説でもあるのだが。

 この本では、元祖盗賊皇帝である漢の劉邦から稿を起こし、乞食坊主上がりの明の朱元璋、強いはずなのに負けてばかりいた明末の李自成、清末に宗教革命みたいなことから始めて太平天国という妙な国を作った洪秀全、そして最後に極めつけの盗賊皇帝である毛沢東の五人が選ばれている。毛沢東についてだけ著者の言っていることを少し紹介する。

 彼(毛)のやったことに、マルクス主義という国家哲学を強制して、国民のものを考える能力を奪ってしまったということがある。これは漢から清にいたる王朝が儒学儒教を国家哲学としたのに相当するが、その程度はずっときびしい。

 しかし一歩振り返って考えてみるとわたしは中国自体にマルクス主義を受け入れる素地があったのだと思う。それは中国人が「経典」を必要とする国民であるということだ。

 中国では、じつに2000年以上にわたって、「易」「書」「詩」「礼」「春秋」の五経が、この世のありとあらゆる事象に正しい解釈を与え、さらに行動の指針を与えてくれた。それが20世紀になって「打倒孔家」が叫ばれ、儒教が権威を失うと、中国人の心に空白が生まれた。その空白を埋めたのがマルクス主義である。つまり儒教そのものは否定されたが、真理を記した書物というよりどころを求める習性は急にはなくならなかったわけである。ちなみに中華人民共和国の建国後、マルクス主義の書物は「革命経典」と呼ばれることになった。やはり経典なのである。

……これくらいにするが、このテの本としてキワモノじみた表現が一切なく、非常に楽しく読んだ。