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司馬遼太郎 韓のくに紀行 朝日文庫

 誰もが高校の日本史で習ったように、朝鮮半島には「百済」という国が紀元前後からあって、大化の改新の頃に亡んだ。その百済の南の方に任那という半独立国家みたいな地域があり、主に北九州地方と盛んに人的・物的交流をしていた。日本にも百済任那からの帰化人がたくさんいた。

 ちょうどその頃、半島の東に新羅という大国が勃興して、自分たちの土地を奪おうとしている、何とか助けてくれまいか、というようなことを任那がさかんに言ってきた。半島の鉄器は日本の農機具や武具で不可欠になってきていたから、神功皇后東征伝説みたいなものは、このような雰囲気の中で成立したのではあるまいか。

 ところでここでふと思うのだが、朝鮮人はどこから来たのだろう。

 常識として考えられるのは、農耕者である漢民族があまり入り込んでいなかった旧満州からの南下者だということである。紀元前後に、狩猟とわずかな農耕で暮していたツングース人(固有満州人)が沿海州北朝鮮の海岸線に沿ってやってきたのだ。その言語は漢民族とはまったく違っており、モンゴル語と姉妹関係にあって、同じウラル・アルタイ語族の日本語とは遠い血縁関係にある。その連中がやがて北朝鮮を中心に高句麗国をつくり、韓民族地帯に入って百済国を作ったのだろう。

 彼らは背が高く、目に蒙古ひだを持ち、頬骨の秀でた容姿で、髪は辮髪であったに違いなく、その服装は北方騎馬民族の特徴であるズボンをはいていたと思われる。このズボンははるかな後世、チンギスハンの世界征服によってヨーロッパ全土に取り入れられた。