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ユヴァル・ノア・ハラリ 『サピエンス全史』(河出書房新社)2/7

 上巻 第2章 言語による虚構の獲得が協力を可能にした

 p35-50

 ネアンデルタール人は1対1の喧嘩には強かったが
 情報がモノを言う集団の戦争には弱かった

 7万年前から3万年前の間に、たまたま遺伝子の突然変異が起こり、サピエンスの脳内の配線が変わったらしい。そのことでサピエンスはネアンデルタール人にはなかった新しい種類の言語を使って意思疎通をすることが可能になった。それまでもネアンデルタール人は、「川の近く、たくさんのバイソン、3頭のライオン、気をつけろ!」くらいのことは言えたが、サピエンスは獲得した新しい言語のおかげで仲間たちに「今朝、川が曲がっている所の近くで3頭のライオンがバイソンの群れの跡をたどっているのを見た」とより詳しい情報を正確に伝えることができた。

 詳しい情報が必要なのは狩りをしようとする場合だけにとどまらない。私たちは集団で暮らす社会的動物だから、自分の集団の中で誰が誰を憎んでいるか、誰が誰と寝ているか、誰が正直で誰がずるをするかを知ることはとても重要だ。これらの情報を数十人単位の集団の中で効果的に交換することは、ネアンデルタール人や太古のサピエンスの言語ではむずかしかったに違いない。新しい言語技能を獲得したサピエンスにとってはそれが可能になり、かれらは何時間でも、誰が信頼でき、誰と誰はとなりの集団に近づこうとしていると情報交換ができるようになった。

 もちろん「現にそこにあるもの」だけでなく、自分は見たことも触れたこともないが、どこかには存在するらしいものについても、この情報交換は成立する。すなわち脳内配線の変化による新言語は、伝説や神話、宗教といった「虚構」の獲得を伴っていたのだ。

 ネアンデルタール人はサピエンスよりも大柄で逞しく、氷河時代ユーラシア大陸西部の寒冷な気候にうまく適応していた。最近の遺伝学的証拠からは、彼らの少なくとも一部は肌が白く金髪だったかもしれないといわれている。
 それはともかく、新言語の獲得こそがサピエンスの成功のカギだった。一対一で喧嘩をしたら、ネアンデルタール人はサピエンスを打ち負かしただろう。だが何百人という規模の戦いになったら、ネアンデルタール人にはまったく勝ち目がなかったはずだ。彼らはサピエンスたちが採る「かもしれない作戦」という推測や虚構を創作する能力を持たなかったので、大人数が効果的に協力できなかった。だから、戦争という自分たちが急速に変化しなければならない社会的行動はとることができなかった。

ユヴァル・ノア・ハラリ 『サピエンス全史』(河出書房新社)1/7

 昂奮しながら本を読んだのは久しぶりだ。
 原著には  a brief history of humankind(概説人類史)という副題が付いているが、内容を正しくいえば、日本語副題のとおり「文明の構造と人類の幸福」である。数年前に本書が出たことは知っていたが、サピエンスの全歴史というタイトルの大袈裟さに出版社の嫌味な受け狙い姿勢を感じて、捨て置いていた。
 それがこのあいだ新聞の何かの書評のなかにこの書のことが触れてあり、「人類史について、とうとうこんなものが書かれてしまった。この書物以後人類史学者は何を書いたらいいのだろう」というような言い回しで、著者ユヴァル・ノア・ハラリに完全に脱帽していた。その評者が誰かも忘れてしまったが、私が何冊か著作を読んで信頼している人だったので、その人がこれだけ持ち上げているのだから読んでみないわけには行かなかった。上下2巻各250ページの瞠目すべき「概説人類史」である。

 著者・ユヴァル・ノア・ハラリは若冠42歳のユダヤ歴史学者だ。どこかでも書いたことがあるが、ユダヤ人は世界人口のたった0.25%しかいないのに、ノーベル賞では20%、数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞では25%をユダヤ人が受賞している。言うまでもなくノーベル賞フィールズ賞では、先人の業績を一歩一歩踏まえて先に進もうとする堅実さよりも、研究の目のつけどころが問われる。その発想がのちの研究者にどれだけ豊かなサジェスチョンを与えられるかということだ。日本人のノーベル賞受賞者に東大出が少ないのは、堅実で優秀な官僚の養成機関であるという東大の基本性格が作用しているからに違いない。

 世界で最も厳しい知的雰囲気の中で訓練を受けた著者も、第1章ではごく普通の考古遺伝学的事実から語り始める。200万年前にヒトとなったわれわれの祖先が20万年前にネアンデルタール人として地球上を制覇しつつあったこと、それが7万年~5万年前にサピエンスに取って代わられたこと、自分の環境を認知し分析する能力にかかわる遺伝子がサピエンスの中でだけ突然変異を起こしたことがこの覇権交代を生んだこと、などだ。
 その後、農業革命が起きたことで、サピエンスはそれまでの狩猟採集社会を捨てる。住民が一定の地域に住む社会が生まれることになり、そこではやがて書記体系の発明によって、社会の「財」の管理が可能となる。このことは書記体系を操る王と官僚階層を頂点とするヒエラルキーを必然的に生み出すとともに、王を自然界の秘密に通じた存在としてシャーマン化しようとする超人間的秩序が編み出される。
 この一方で、自分をとり巻く森羅万象を言語によって分節的に理解しようとすることも、5万年前のサピエンスの脳に組み込まれた本能だった。その本能が約500年前に、現在のわたしたちに直接つながる科学革命を生んだ。
 その科学革命は今もなお速度を増して進みつつあり、科学革命がなってわずか500年後、サピエンスは自分たちの身体と、自分由来ではない有機・無機の物質を組み合わせて、両親から自然に生まれた「自分」をいまや科学の力で超えようとしている・・・。

  この本が際立っているのは、そこに生きる人類の<幸福感>が、社会構造が転変するなかで、どのように変わって行ったのかあるいは変わらなかったのかということが、いつも中心課題として問われていることである。
 このような幸福感を中心にすえた人類史は、少なくとも日本人によるものとしては書かれたことがないのではないか。

 ふつうの歴史書では、ナポレオンがロシア遠征でどのようにクズーツォフ将軍の焦土作戦に破れ、そのことが以後のヨーロッパ分割計画にどう影響し、後のヨーロッパ帝国主義の台頭のどんな礎になったかということが論じられる。  
 それがこの本では、次のように読者に語りかける。いわく、現在のさまざまなイデオロギーは人間の幸福の真の源に関するかなり浅薄な見解にもとづいていることが多い。国民主義者は自決権が欠かせないといい、資本主義者は自由市場だけがどの国の人にも最大幸福をもたらすことができると主張する。だが、八世紀イスラム教の台頭によって、エジプト人は日々の暮らしに対する満足感が深まったか、さらには、アフリカにおけるヨーロッパの諸帝国の崩壊が、無数の人々の幸せにどう影響したのかといった問題は提起しない。ましてやバビロンの住民が狩猟採集生活をしていた祖先よりも幸せだったのかなどとは問いもしない、と。

 この本では、独特のアイロニックな文体によって、従来の歴史書で説かれてきたことがどこまでイデオロギーに汚染されていないかが、目の細かなフィルターにかけられる。それでいて文章は少しも晦渋ではない。世界各国で大ベストセラーになったのももっともだ。

夏目漱石 『それから』(角川 漱石全集7)

 『それから』は1908年作『三四郎』の翌年に書かれた。だから『それから』は小川三四郎の人生がそれからどうなったかを描いたものであるという人がいる。が、これはまったく間違っている。両作品は牛と馬ほどに違うことを書いている。

 まだ江戸時代であるかのような熊本の田舎から「どこまで行っても街がなくならない」大都市・東京にポッと出てきた小川三四郎は、大学構内の池の端で美禰子の視線に出会ったとたんに、一生消えないような焼き印を胸に押されてしまう。それくらいオボコイ青年だった。
 
対して、東京の資産家の次男に生まれた『それから』の永井代助は、30歳になっても、学生気質の理想主義がまだ抜けない。実世界での職業生活をことごとく侮蔑し、パンのために汗を流すことを奴隷の人生と何ら変わりないと公言する。月々の生活費を100%父と兄に頼るが、父と兄のアタマでは実業しかないのだからとうそぶき、自分の親がかりを「アンニュイ」な論理の中に埋めて暮らしている。とはいっても『三四郎』の広田先生のような、世間の栄達や名声をほぼ完全に締め出すアタマの中の論理整合性はなかなかのものをもっている。

 三四郎が生まれて初めて深刻な恋心を抱いた美禰子は、漱石が「その巧言令色が、努めてするのではなく、ほとんど無意識に天性の発露のままで男を虜にするところ、もちろん善とか悪とかの道徳的観念もないでやっているかと思われる・・・・」と言っているような女性だった。
 対して代助といっしょに悲劇に落ちる三千代は「世間が許さなければ死ぬ覚悟があります」と、いつも真顔の女性である。彼女は代助の学生時代の親友の妹で、兄と暮らしていた当時から代助の気持ちは知っていた。しかし、代助のもう一人の親友である平岡も三千代に激しく恋していた。そして「自分に誠実でありたい」代助は、三千代には自分のような性格の男よりは平岡のような実世界向きの男の方が向いていると判断し、彼女を平岡に譲ってしまう。

 代助は外の世界を動かすということに興味がない、自己観察にしか心が動かない文明批評家だが、その一方、三千代に対する自分の気持ちを素直に扱えない「誠実な偽善家」でもあった。このことが悲劇の発端になる。

 代助の父親は幕末に、ある藩の財政を立て直した能吏だった。儒教思想で凝り固まった自信家で、昔の成功体験をもとにして今も代助の兄を引きつれて、なにをやっているか代助にはよく分からない政商の世界で顔を利かしている。そのうちに大きな製糖会社の贈収賄事件に巻き込まれ、父親はかなりの損害を蒙る。

 しかし父親の昔の知り合いに、現在は兵庫県のどこかで裕福に暮らす大地主がおり、その娘がちょうど適齢期になっていた。利に敏い父親はそのことを見逃すはずはなく、いつまでもぶらぶらしている代助にその娘を貰えという。娘の父の資産を傾いた自分の会社に役立てようというわけである。そのことを知った代助は、これまでも何のかんのと言って縁談に応じようとしなかったが、従来以上に父親が自分の欲望をむき出しにする今度の縁談もすっぱり断る。

 一方、三千代の夫・平岡は3年前に九州のある銀行に就職したのだが、そこで不良資産がらみで上司に詰め腹を切らされ、東京に帰ってきて新聞社の経済部にいろいろ苦労して再就職する。当時の新聞社は――今でもその一面は大いにあるが――、まだまだ江戸時代の瓦版がのし上がっただけの雰囲気を残しており、風聞・ゴシップ記事が幅を利かせていた。

 ちょうどそのとき、3年ぶりに三千代にあった代助は、過去に自分を偽って三千代を平岡に譲ってしまったことを思い出す。その三千代はいま夫の失業や結婚後の死産のせいで健康がすぐれていなかった。その三千代を見た代助は、実世間を「アンニュイ」な知的論理で小ばかにする日頃の態度を忘れ、かつての学生時代の恋心をそのまま甦らせてしまう。そして平岡に「お前は彼女を幸せにできない。彼女を俺にくれ」と談判してしまう。

 談判のとき世間に疎い代助は平岡がゴシップ新聞の経済記者であることを忘れていた。三千代を代助に取られそうになった平岡は、代助の父にそのことを知らせる。贈収賄事件の余波に悩む父にとって息子の醜聞は致命傷になる。かくして代助は即座に勘当され、いっさいの収入を絶たれる・・・・・・。

 この巻の末に武者小路実篤の『それから』に対するオマージュが収められている。代助の一面の理想主義は白樺派お坊ちゃんたちの「新しき村」に多大な影響を与えたらしい。漱石は代助の理想主義を――朝日連載終了後、胃潰瘍を発症しながら――蟷螂の斧として、ちゃんと破滅させているというのに。お坊ちゃんたちはいつもたわごとを考えるものだ。

最相葉月 『絶対音感』(新潮文庫)

 絶対音感とは、ごく簡単にいうと、例えば440ヘルツに調律されたピアノのA音(ラの音)を基準にして、そこからすべての音を正確に聞き分けられ、楽器でも声でも再現できる能力のことだそうだ。完璧な絶対音感を身につけた人は、街中のさまざまな雑音の中から、タイヤの軋み音、子供の金切り声、大男の叫び声の音階を正確に五線譜上に書けるらしい。一時大いに流行した子供の早期音感養成教育の効果で、日本人にはこの絶対音感を持つ子供の割合が高いらしい。

 p150

 映画『レインマン』の原作者で、『妻を帽子とまちがえた男』などの著作で知られる脳神経科医のオリバー・サックスは、絶対音感が生まれつきのものなのか学習によって多くの人が得られるものなのかは分からないと前置きしながら、次のように言う。
 「絶対音感モーツァルトメンデルスゾーンは持っていたといいますが、シューマンにはなかったといわれています。私の印象では、絶対音感と音楽的な才能や創造性はほとんど関係がないように思われます。持っていれば便利ではありますが、ただその場の環境や体調によっては音が狂って聞こえるといった面もあり、ときには非常に厄介であったりもするようです。
 「しかし、絶対音感が言語のように生きていく上で絶対に必要なものなら、おそらくもっと誰もが普通に持っていたはずです。多くの人が持っていないということは、人間が本来必要としないものを持っているという点で、特殊な能力であることは確かでしょう。」

 p304-5

 千住真理子は、最年少の15歳で日本音楽コンクールに優勝したとき、天才と絶賛された。だがそれは、テクニック先行型のバイオリン弾きが生まれたという留保つきの賛辞であると、もとN響コンサートマスターだった師の江藤俊哉は厳しく念を押した。「あなたはもう完璧だ。弾けないものは何もないはずだ。でもこれからが大変だね。これからあなたに求められるものは、(ただの超絶テクニックではなく)音楽という名の芸術だ。いつの日か、あなたの演奏で僕を感動させてください。」
 15歳の千住はただ呆然とし、答える言葉を見つけられなかった。「技術を磨くことは簡単なんです。一生懸命努力すればいいのですから。でも私は、優勝したとき、その技術が100パーセントあるということで、それしか自分にはないことをさらけ出してしまったんです。」
 「何を表現したらいいか、それがわかる私もいなかったんです。友達が何人かいて、好きな科目もある、そんな、ごく普通の15歳の私しかいなかったんです。喜怒哀楽もとても幼いものでしかない。幼稚な感情しか表現できない。テクニックは完璧だけど、そんなもので芸術は表現できない、幼すぎる。江藤先生に一言も答えられない自分だけがそのときいました。」

木村尚三郎  『西欧文明の原像』(講談社学術文庫)3/3

 自分以外のすべてに対する不信感こそ、西欧の力の源泉

 P251-258
 権力を掌握する者は悪いことをする、彼らを信じきることは破滅を意味する。人はそれぞれ自分で自分の身体・生命・財産を守らなければならない、ーーこれが16・17世紀の宗教戦争期以来のヨーロッパ人の生活信条であり、日常的な生活感覚だった。髪の色、皮膚の色、目の色、ことばが違うのであれば、こころの通い合う道理はなく、人間が互いにそうであれば、権力をとれば当然悪いことをするであろう、――この、自分以外のすべてに対する不信感と、争いと傷付けあいから生まれる罪の意識が極度に大きくなったことが、人間を超越した唯一神・キリストに対するひたすらな信仰を一般化したのだった。このうちの宗教改革期の新教がアメリカ新大陸にそのまま移住して現在の福音派の大隆盛に繋がっている。

 日本人の「家の子」意識から世界に誇るべき何が生まれる?

 P372-5
 ところでこの冷たく突き放した自己観察・自己評価の神経に、日本人はどれだけ耐えられるか。わたしたちは自身による客観化どころか、他人による冷徹な客観化さえ好まない。
 著名な外国人が来日すれば必ず日本についての感想を求めるが、そのとき私たちは必ず良い採点を期待する。どうかして正直な採点でもされると、意気消沈してしまうか、国際儀礼もわきまえない失礼な奴と憤慨する。

 自ら主体的に戦うことなく「いい子」でいたい、むつみ合う「和」の関係のなかに自らを安定的に位置付けたい、そしてこの「和の関係」を安定的に保つために、強制力を伴う「権力」「権力者」でなく、人を心服せしめる「権威」「権威者」を「上」に仰ぎたい。さらに、働くことは厭わないが、自分だけで働くのではなくて、ほかの人と一緒に、同じ程度に、同じ仕方で働き、また休むのもほかの人と一緒に、同じ程度に、同じ仕方で休みたい、・・・となればこれは、大地に一族郎党がいっせいに労働力を投下することによって初めて大地から豊かな報酬を期待できた1000年前以来の「家の子」の生活感覚にほかならない。江戸時代の家制度ないし旧民法下の家はもはや遠い過去のものとなってしまったはずであるが、「家の子」意識は現在でも日本人の生活感覚、社会的倫理規範の中心を貫いている。

 土地に縛り付けられるという農奴の不自由性は、近代市民の自由と対比して高校世界史の教科書でとっくに履修済みのはずである。さまざまの異なった皮膚や言語の人々と緊張のうちに共存し合うことによって、新しい生活領域と新しい自己を作り出していくこそが、社会の近代化を推し進める原動力のはずであった。とすれば、つねに心を「許し合い」、慰め合う生活環境に安住して、つねに「うち」と「そと」を区別し、不自由な自分を見つめない生活態度は、ヨーロッパ中世の農奴と一体どこが違うのだろうか。

 他人の不幸がみずからの幸せという倒錯した残酷な心理は、みずから積極的に運命を切り開きえない植物的受動人のそれであり、女性的日本人の大半が内心ひそかに抱いている悪質な感情である。これが根強く残っているとき、自分自身は人並み以下に落ちたくないという、猛烈な差別反対、能力主義反対の態度を生む。そして有能な人材とみればよってたかって凡俗のレベルまで引きずりおろそうとする。この心理がわが国には大きな社会的同調圧力として作用しており、結果的に、世界に誇るべき普遍的かつ個性的な文化価値が生じがたいことになっている。

木村尚三郎 『西欧文明の原像』(講談社学術文庫)2/3

 ウマイヤ朝ムスリムが紹介するまで、西ヨーロッパはアリストテレスを知らなかった

 p77-9、86-9
 西ヨーロッパがプラトンアリストテレスを知ったのは12世紀のことであり、それもスペイン・ウマイヤ朝イスラム教徒を介してのことだった。ウマイヤ朝の首都スペインのコルドバは当時ヨーロッパ一の大都会であり、道路は舗装され、夜は街灯がともっていたという。パリが初めて舗装されたのは1184年のことで、それもルーヴル宮の前だけだった。

 ギリシア・ローマの古典文化がイスラム文化を通して西ヨーロッパに紹介されたということは、西ヨーロッパにとり、地中海の古典文化はイスラム文化と同じく異国の先進文化だったことを物語っている。そしてまた異国の先進文化であったがゆえに、西ヨーロッパは過去にコンプレックスをいだいた。それはちょうど明治以降の日本において、つねに欧米を基準とし、欧米先進文化を引合いに出すことによって、自らの学問・文化の権威づけが行われてきたのとよく似ている。17世紀フランス文人の間で戦われた「古代人・近代人優劣論争」は、この意味でまことに興味深い。

 西ヨーロッパが古典古代へのコンプレックスから完全に解放されたのは、じつに第二次大戦後のことだった。それは、西ヨーロッパ諸国の経済復興と発展、欧州共同体の発足と展開、そこでの相互協力による高度の産業化と一体の過程が、歴史的・文化的個体としての自分たち<西ヨーロッパ>を、ギリシア・スペインなど地中海世界との対比において、初めて自覚させたものと言えよう。

 今日、西ヨーロッパ諸国の教育機関において、ラテン語学習が義務的科目から外され、また西ヨーロッパ世界の成立を11、12世紀に求めるようになったのは、高度の産業化によって西ヨーロッパがはじめて自己を主張する自信、地中海世界との異質性に対する明確な意識を持つようになったからであった。そして「中世」ということば自体が、今日すでに特定の時代概念ではなくなりつつあり、たんなる便宜上の日常語として使われるにすぎなくなった。

 フランスの近代国民国家はイギリスへの恐怖心が生んだものだった

 p109-10
 19世紀の国民国家はそれ自体が虚構であり、擬制であった。地方政治や官僚制度など国家組織の基本が未整備、不整合、不安定であり、革命や暴動といった動乱の可能性が常に孕まれていた。支配する側にもされる側にも、自己を維持しとおすために英雄とか、強烈な人格とかを待望せざるをえない状況が日常的に存在していた。

 なぜ近代ヨーロッパの支配者とブルジョアジーは、無理をしてでも、それ自体が擬制である政治体を作り出さねばならなかったのか。その最大の原因は近代イギリスの存在そのものであり、大陸側の市民はつねにイギリスに存在に心理的圧迫を受けていた。
 イギリスは機械制生産をなしとげる産業革命のはるか以前から、ナショナルな規模で商品生産を展開できた唯一の国家である。14世紀後半以降、国際的花形商品として大規模に生産されるにいたった良質の毛織物がイギリス最大の武器であった。
 このイギリスとドーバー海峡を挟んで相対するフランス・ブルジョアジーは、14-15世紀の100年戦争以来異常な勢いで発展するイギリスに緊張感を抱き始めていたが、くだって18世紀にイギリスが産業革命を成功させるにおよんで、緊張感と恐怖は極点に達した。
 その結果、合理的思考の持つ現実変換能力がいやがうえにも高く評価されて、啓蒙思潮が生み出され、絶対王政の打倒と国民国家の樹立が叫ばれたのだが、それはひとえに、この「非常識な」イギリスに対する、フランス・ブルジョアジーの自己防衛反応の所産であった。 

 全国的な飢饉が自作農を一斉蜂起させ、フランス革命を全国に波及させた

 p185-6
 ところで、フランス革命はなぜ起こったのか。
 ルイ16世の無能・無気力とマリー・アントワネットの奢侈にどれほど国民が憤慨し、国民国家樹立の必要性や人権思想の理念が説かれ、それによってパリだけは動いたとしても、コミュニケーション手段の劣悪な当時では、とても全国一斉の人民蜂起というわけにはいかなかったろう。市民社会理念や人権思想の確立は、フランス革命の評価ではありえても、必ずしも原因たりえない。

 じつは革命のはじまる前年、フランスはたいへんな凶作であった。そして翌年の春からは穀物が深刻に不足し、価格が高騰し、飢饉がおとずれた。全国の農村は、「強盗団」が穀物を奪いに来るのではないかとの思いからパニックに陥った。
 こうしてすべての農村がいっせいに武装をはじめ、穀物を取られる恐怖に駆られて領主への年貢支払いを拒否しただけでなく、領主館を襲って年貢のもとである証書を焼き捨てた。凶作が全国の農民に等しく自衛・土地防衛の行動を起こさせ、結果として領主権を攻撃させたことこそ、フランス革命を準備し、成功に導いた最大の原因である。

木村尚三郎 『西欧文明の原像』(講談社学術文庫)1/3

いまのアメリカは、「西欧の精神」の露骨な見本帳だといえる

 p46-8

 欧米人にとって戦争は、長いあいだほとんど唯一の、そして確実なコミュニケーションの手段そのものだった。今日なお、その意味は失われていない。
 欧米の文化はまさに戦士の文化であり、一人前に戦い得るものだけが人間としての資格と権利を認められ、主体性を発現し得る文化であった。そして、敗残者は公園のベンチに終日じっと腰かけていることを余儀なくされる。アメリカの大都市の片隅に見うけられる人のように。

 第二次大戦後アメリカ文明の影響を全身に浴び続けた日本では、企業戦士という言葉がマスメディアで使われない日はなかった。一人前に戦いえた上級企業人たちの栄光と、力をなくして老残兵となった人たちの余生の対比も、アメリカの風景を縮小コピーに取ったように似ている。

 現代の啓蒙思潮による人権思想の展開は、このような冷酷非情な自己確認の態度がいささかなりとも変化したことを意味するものではない。
 人権思想は、商品経済の進展とともに人々の社会的な相互依存度が増大した結果、傷つけ合い殺し合うことによる自己確認方法が、少なくとも市民社会の内部では互いの不利益になり、暴力・腕力によるコミュニケーションよりは「対話」によるコミュニケーションの方が利益に富むことを社会が気づいたからにすぎない。
 すなわち、欧米国家は対等な相互依存関係を必要としない相手に対しては、依然として力によるコミュニケーションが続ける。もっとも先進的に民主主義を実現してゆく国家が、国際社会では植民地支配を行い、非民主主義的に行動したとしても、それは自己矛盾でもなんでもない。それは自分の主張を実現する表面と裏面の行動なのであって、それをまやかしあるいは見せかけとみるのは全くのあやまり、あるいは日本人の偏見である。

 ここでの「対話」は、だから「気心」の知れない冷たい対話であり、日本人同士の「こころ」が触れ合う暖かい話し合いとは根本的に異なっている。日本で「話し合いに応じる」といえば、それは対立していたものと仲良くする意志のあることを暗黙の前提としている。従ってそのとき現実に双方から交わされる言葉は、直接・間接に「気心」を伝え合う媒体でしかなく、極端な場合にはどうでもいい飾りにすぎない。その「話し合い」は男女、夫婦、親子の会話のように、共感と情感に媒介された睦言、おしゃべりである。鋭い論理、一言ごとに自他の利益を測定する精神態度は存在しない。

 p49-50
 アメリカ人は、国民国家に生きる人々の感覚からすれば、一人ひとりが母国語を持たない孤独な国際人である。彼らのあいだには風土も人情も捨象した論理的な人間関係しか存在せず、またそれだからこそ19世紀的な国民国家を克服して大陸型の国家をつくりあげ、維持できているのだといえる。
 一人ひとりは率直・快活で善良な、要するに「人の好いアメリカ人」のイメージと、ケネディ大統領、ケネディ上院議員、キング博士を暗殺した暴力的なアメリカ人のイメージ、それにベトナム戦争の暴挙を長年続けた傲慢なイメージは、どこでどうつながるのだろうか。
 おそらくこれらのどれもが、アメリカ人の一面を正しく表現しているのだ。すなわち相互依存の必要がない(と当時は思っていた)東南アジアの国に対しては、全力を挙げて先制攻撃をしかけ、叩き潰そうとする。反対に相互依存の必要ありと判断した中国・ソ連のような国に対しては、これまた全力を挙げて、攻撃意図のないことを積極的に表明し、対話による平和共存の道を見出そうとする。それは生きるために冷たい言葉、自分でもよそよそしいと感じる言葉しか持ちえない孤独な人々の、いわば自営本能にもとづくともいうべき精神態度であり、自分以外のすべての人間を信じることのできない緊張感から、それは発している。

 ひとことで言ってしまえば、アメリカ人のフランクな人の好さは生きるための術である。それはもちろんタテマエなのだが、このタテマエはまさに真剣・切実なもので、それなりに社会的真実性を持っており、そこでは個人による壮絶な戦いが日常的に展開されている。

 アメリカは、天国と地獄の存在をいまだに信じている人の割合が欧米キリスト教国の中でいちばん高い。キリスト教がしだいに生命を失って習俗化し、冠婚葬祭の儀礼と化しつつあるヨーロッパ諸国とは大きなちがいがある。アメリカ人は依然として、個人一人ひとりで神と向き合わねばならなかったルター、カルヴァン以来の厳しいプロテスタント伝統の中にあるわけで、逆方面からいえばアメリカ人はそれだけ、人間そのものに対する根底的な不信感のうちに生きることを余儀なくされていることになるだろう。