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木村尚三郎 『西欧文明の原像』(講談社学術文庫)1/3

いまのアメリカは、「西欧の精神」の露骨な見本帳だといえる

 p46-8

 欧米人にとって戦争は、長いあいだほとんど唯一の、そして確実なコミュニケーションの手段そのものだった。今日なお、その意味は失われていない。
 欧米の文化はまさに戦士の文化であり、一人前に戦い得るものだけが人間としての資格と権利を認められ、主体性を発現し得る文化であった。そして、敗残者は公園のベンチに終日じっと腰かけていることを余儀なくされる。アメリカの大都市の片隅に見うけられる人のように。

 第二次大戦後アメリカ文明の影響を全身に浴び続けた日本では、企業戦士という言葉がマスメディアで使われない日はなかった。一人前に戦いえた上級企業人たちの栄光と、力をなくして老残兵となった人たちの余生の対比も、アメリカの風景を縮小コピーに取ったように似ている。

 現代の啓蒙思潮による人権思想の展開は、このような冷酷非情な自己確認の態度がいささかなりとも変化したことを意味するものではない。
 人権思想は、商品経済の進展とともに人々の社会的な相互依存度が増大した結果、傷つけ合い殺し合うことによる自己確認方法が、少なくとも市民社会の内部では互いの不利益になり、暴力・腕力によるコミュニケーションよりは「対話」によるコミュニケーションの方が利益に富むことを社会が気づいたからにすぎない。
 すなわち、欧米国家は対等な相互依存関係を必要としない相手に対しては、依然として力によるコミュニケーションが続ける。もっとも先進的に民主主義を実現してゆく国家が、国際社会では植民地支配を行い、非民主主義的に行動したとしても、それは自己矛盾でもなんでもない。それは自分の主張を実現する表面と裏面の行動なのであって、それをまやかしあるいは見せかけとみるのは全くのあやまり、あるいは日本人の偏見である。

 ここでの「対話」は、だから「気心」の知れない冷たい対話であり、日本人同士の「こころ」が触れ合う暖かい話し合いとは根本的に異なっている。日本で「話し合いに応じる」といえば、それは対立していたものと仲良くする意志のあることを暗黙の前提としている。従ってそのとき現実に双方から交わされる言葉は、直接・間接に「気心」を伝え合う媒体でしかなく、極端な場合にはどうでもいい飾りにすぎない。その「話し合い」は男女、夫婦、親子の会話のように、共感と情感に媒介された睦言、おしゃべりである。鋭い論理、一言ごとに自他の利益を測定する精神態度は存在しない。

 p49-50
 アメリカ人は、国民国家に生きる人々の感覚からすれば、一人ひとりが母国語を持たない孤独な国際人である。彼らのあいだには風土も人情も捨象した論理的な人間関係しか存在せず、またそれだからこそ19世紀的な国民国家を克服して大陸型の国家をつくりあげ、維持できているのだといえる。
 一人ひとりは率直・快活で善良な、要するに「人の好いアメリカ人」のイメージと、ケネディ大統領、ケネディ上院議員、キング博士を暗殺した暴力的なアメリカ人のイメージ、それにベトナム戦争の暴挙を長年続けた傲慢なイメージは、どこでどうつながるのだろうか。
 おそらくこれらのどれもが、アメリカ人の一面を正しく表現しているのだ。すなわち相互依存の必要がない(と当時は思っていた)東南アジアの国に対しては、全力を挙げて先制攻撃をしかけ、叩き潰そうとする。反対に相互依存の必要ありと判断した中国・ソ連のような国に対しては、これまた全力を挙げて、攻撃意図のないことを積極的に表明し、対話による平和共存の道を見出そうとする。それは生きるために冷たい言葉、自分でもよそよそしいと感じる言葉しか持ちえない孤独な人々の、いわば自営本能にもとづくともいうべき精神態度であり、自分以外のすべての人間を信じることのできない緊張感から、それは発している。

 ひとことで言ってしまえば、アメリカ人のフランクな人の好さは生きるための術である。それはもちろんタテマエなのだが、このタテマエはまさに真剣・切実なもので、それなりに社会的真実性を持っており、そこでは個人による壮絶な戦いが日常的に展開されている。

 アメリカは、天国と地獄の存在をいまだに信じている人の割合が欧米キリスト教国の中でいちばん高い。キリスト教がしだいに生命を失って習俗化し、冠婚葬祭の儀礼と化しつつあるヨーロッパ諸国とは大きなちがいがある。アメリカ人は依然として、個人一人ひとりで神と向き合わねばならなかったルター、カルヴァン以来の厳しいプロテスタント伝統の中にあるわけで、逆方面からいえばアメリカ人はそれだけ、人間そのものに対する根底的な不信感のうちに生きることを余儀なくされていることになるだろう。