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亀山郁夫 「カラマーゾフの兄弟の続編を空想する」

 言うことは五十ページあれば尽くせるのに、新書として二五○ページを持たせるためのつまらない冗舌があふれる凡書の典型。光文社のたぶん販売部の編集である。
 著者の東京外国語大学の学長は、理屈っぽさを嫌う人たち向けの「平易な理屈」使いに長けた人間である。ひとつの主張の論拠となる外国研究者の論文を、二十ページ先では微妙に異なる主張のためにも用いたりして、それに出くわすたびに読者は舌打ちが出る。作品の根元にある作家の「元型」などには思いもいかない自信に満ちた学者であり、「カラマーゾフ」も「罪と罰」も「悪霊」も、心理学と才気ある文章力だけで書けてしまうと信じているフシがある。
 亀山氏によれば、「カラマーゾフ」は象徴層と物語層と、これらに挟まれた自伝層からなるらしい。分かりきったことを大げさに言う人もいるもので、新訳の「平易さ」とは「安易さ」のことかと疑わせる。ある種の人にとって人生は平易なのだが、知恵だけがはたらく人の研究室からあっさり解釈されるような分かりやすい生活を、ドストエフスキーは送ったわけではない。
 「カラマーゾフ」はロシア人も読むのに骨が折れるそうだが、日本人が翻訳ですらすら読めるとしたら、果たしてそれは喜ぶべきことなのか。人物の奥深くに踏み込む読解の難所には立ち往生を防ぐ間道を巧みに穿ち、探偵小説風の展開を目立たせる幾つかの標識をつければ、若い読者の意を迎えることはいくらでもできる。素人に気づかれることは、ほぼない。(「ドストエーフスキイの会」を主宰する千葉大学名誉教授からは「およそあり得べからざる誤訳」の多さについて辛辣な批判を浴びた。私は校訂をしたわけではないが、多分単純な誤訳ではないだろう。ドストエフスキーの名前を借りてでも有名になりたかった野心家の、下心ある仕事であろう。)
 おまけに、象徴層とは「カラマーゾフ」にとってどんな役割を果たすのか、ドストエフスキーにとって象徴とは何なのかについては、気休めにもならぬことが書かれている。「象徴層とは、すこしむずかしくなるが、形而上的な、“ドラマ化された世界観”とでも呼ぶべき世界である」(p102)とは、読者をなめたような言い方である。有名大学の学長が(大人も混じる)読者に文学のイロハを教えてやるという態度はいけないし、ましてそのイロハが可笑しかったら救われない。
 新訳「カラマーゾフ」がこの「空想」のおかげで売れなくなるだろうと思うが、買う人が卑屈になったのか、怠け者になったのか、そうでもないらしい。続編が、ドストエフスキーが死なずに書かれていれば、アリョーシャを中心に進むことは言うまでもないことだろう、それも皇帝暗殺未遂事件にかかわって。落ちのわかった話をを二百ページにもわたってグダグダとなぜ言うのかが不明である。
 時間があり余っているから最後まで読んだが、著者は岩波でも本を出していると知って驚いた。この駄作を毎日新聞「今年の3冊」に推しているのが池澤夏樹だと知ってまた驚いた。福永武彦を父に持ち、美しい「きみのためのバラ」を書いた知性が、“象徴とはドラマ化された世界観だ”と教える本のどこを推薦するのか。出版業界が根のところで腐り始めているのか、絡み合った義理のお付き合いなのか、本当は鼻で嗤っているのか。
 本書によると、ドストエフスキーに示唆を与えたフョードロフなる19世紀の狂信的ロシア正教「哲学者」は著書「共同事業の哲学」で死んだ父祖の肉体的復活を大真面目に論じ、そこには「現代分子生物学の考え方の先駆」的なものさえ見られるという。
 亀山氏の(文学・哲学・歴史学・科学)蓄積の危うさ、でないとすれば、あざとさがここで暴露されるのだが、「死んだ父祖の肉体的復活」などは、セム的一神教ロシア正教の終末論のありふれた光景のはずである。それを言わずして分子生物学うんぬんを言い立てるのは、ことさらに奇異な単語を用いての自己顕示欲か、商業主義以外のものとは思われない。
 終末の日の復活は、時間の可逆進行が考えられないからあり得ないのであり、肉体を構成するアミノ酸分子を再度凝集させることの不可能は、過去のアミノ酸の凝集状態はそのときの時間平面上でしか実現しないからなのだ。
 ブランド大学の長であれば、それくらいのことは昨今、常識に属する。その知見に立って、(フョードロフに唆された)ドストエフキーのこの方面での限界を確認しなくてはならない。きょうのこの時刻に、きのうのアミノ酸の十の数十乗個の分子の拡散状態と凝集状態が「再現」することはない。燃えたマッチの軸を元に戻すことは、何を以ってしてもできない。ある時刻の「システムの状態」にすぎない生命は、二千年来の固定的生命観に支配されたドストエフスキーが捉えられるものではなかったのだ。だから、謎にうなされるドストエフスキーは熟睡できなかったのである。曲学阿世の徒とは、この学長のような人のことをいう。