アクセス数:アクセスカウンター

武道家の感傷?

 これまで数冊の内田樹を読んだが、はじめて強い違和感を覚える一節に出会った。『昭和のエートス』(文春文庫)p100−109の『日本人の社会と心理を知るための古典二○冊』という、新聞か雑誌への寄稿である。私の気に障ったところだけを抜き書きする。
 p103
 海舟の伝記は子母澤寛が何種類か書いているが白眉は『勝海舟』。子母澤寛は元彰義隊員で五稜郭の敗兵であった祖父の昔語りを通じて、「負けた人間」への共感を学んだ。子母澤寛の小説の主人公はほとんど例外なく「敗者」である。敗れるものの敗北の鮮やかさを勝者の驕慢より高く置くのは久しく日本の美風であった(今はきれいさっぱり失われたけれど)。『新撰組始末記』はその子母澤寛の「敗者文学」の代表作である。
 物語による死者たちの鎮魂の仕事は司馬遼太郎にも通じている。・・・・・私たちが私淑すべき範を求める先があるとすれば、それは『坂の上の雲』に描かれた日露戦争の軍人たちではなく、幕末に国事に奔走して横死した青年たちだろう。後者のうち少なくとも半数は敗者として死んだからである。戊辰の戦死者たちが祟りをなさないのは靖国神社の手柄ではない。そこには賊軍の死者たちは祀られていない。 
 ここまで挙げた作品に共通するのは、「歴史が切り捨てようとしたもの」へのこだわりである。成島柳北はエリート幕臣から市井の粋客になって、治国平天下の言説にきっぱり背を向けた。それは、どう転んでも政治的言説というのは世界どこでも似たようなものになる他ないからだ。
 政治原理は全体化する傾向にある。人権や民主主義が万国共通の価値であるように、帝国主義強制収容所に国民的特徴はない。収奪や弾圧の仕方は時代を超え、歴史を超えて、みごとにどこでも一律である。だから、世界がどこでも似たようなものになることを本能的に厭う精神は、必ずや「絶対精神の自己実現」の轍に踏みにじられた人々に一掬の涙を注ぐのである。敗者のあり方に「世界標準」は存在しないからである。・・・・・日本人たちが「世界標準に合わないから」という理由で切り捨てていったものを擁護顕彰することによってしか、日本の固有性と世界の多様性は担保されない。
 さて。内田が言うように、成島柳北は騎兵頭、外国奉行、会計副総裁に次々に任じられた超エリート幕臣である。幕府の奥儒者の家の出である。儒教は、臣と民は命を賭して君に忠誠を尽くすべきことを説く。忠誠を尽くされた君は現在の徳をさらに高からしめ、臣と民の安寧をはかれと説く。
 君子の義務は気楽なものである。「臣と民の安寧」とは、臣と民の経済が相対的に安定しているだけで保たれるからである。飢饉一揆鎮圧、矮小な内乱と参勤交代などの国費無駄遣いが少なければ、温帯モンスーン気候の民性穏やかな国において、経済安定はそれほど実現困難な課題ではない。しかも一揆鎮圧、矮小な内乱などは、中世、近世にあってはほとんど君子が勝手に起こすものであった。まさに内田自身が逆説的に言うとおり、民の収奪や弾圧の仕方は時代を超え、歴史を超えて、みごとにどこでも一律である。
 その「君子が臣と民に<私に忠誠を尽くしなさい>と言うことの正当性」を、江戸城の奥座敷で将軍に進講するのだから、幕府の奥儒者という階層は――その人に日本を高みから鳥瞰する目が備わっている人ならなおさら――、自分の「無用性」を知り尽くした皮肉な人たちで構成されていたに違いない。
 だから、成島柳北が、明治維新後、世外の身となり、当時の花柳界の名妓たちの気風とたたずまいの鮮やかさを活写するという「無用の文」を草して生涯を終えたというのは、ある意味、それしかできなかったからである。「将軍への忠誠」の思弁ののち、数ヶ月後には「近代擬制への忠誠」をマジになって説かれては、聞く人は鼻白むだけである。
 またさて。内田は、「帝国主義強制収容所に国民的特徴はないが、・・・・・敗者のあり方に“世界標準”は存在しない。“絶対精神の自己実現”の轍に踏みにじられた人々に一掬の涙を注ぎたい」と言っているが、これは「日本固有の敗者のあり方が実在する」ということの、別の言い方と思われる。では、当時の「日本固有の敗者のあり方」とは何なのか。
 内田はすぐ後のページで、「西洋近代と日本のインターフェイスに立つものの矜持と不安」の代表的表現者として、夏目漱石をあげている。漱石の取り上げ方は正しいと思うが、では漱石は作品中で、「日本固有の敗者のあり方」に頻繁に言及したのだろうか。何人かは確かに「西洋近代と日本のインターフェイスに立つものの不安」を体現した人物である。ただ、『明暗』にしろ『虞美人草』にしろ『こころ』、『門』、『草枕』にしろ、主人公たちは「日本固有の敗者」であったのではない。近世と近代のインターフェイスがうまく行かないことに苛立って胃を悪くした個人たちにすぎない。
 これに対して、新撰組、白虎隊、彰義隊五稜郭で横死した若者は、「西洋近代と日本のインターフェイスに立つ」以前に、会津藩松平容保のような牢固たる「アンシャンレジーム」にとどまったゆえに犬死してしまった(榎本武揚ひとりは逃げ延びて大出世した)人たちである。一言でいえば、彼らは旧日本軍の情報不足、勉強不足をその八十年も依然に先取りしていたのであり、将棋の香車のような行動規準しか持たなかったために敗者となったのである。
 「<(ヘーゲルの)歴史という絶対精神の自己実現>の轍に踏みにじられた人々に一掬の涙を注ぎたい」というのは、<苛立ち>と<敗北感>を乱暴にも(武道家ゆえの綻びか)同じレベルのマイナス感情であると捉えた、日ごろの内田樹らしくもないスキだらけの感傷的な文章である。