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バルガス・リョサ 「都会と犬ども」(新潮社)

 岩波文庫で出ている同じ著者の『緑の家』といっしょで、一つのパラグラフの中に過去と現在が入り混じる。『緑の家』でははじめの100ページほど悩まされたが、今度は慣れた。登場人物が多く、主役が誰かがはっきりしないのも『緑の家』と同じである。著者の出世作ということだが、それにしても映画のフラッシュバックのような手法をとり、それほど複雑な話ではないものを、時間を混乱させてまで読解を滞らせる積極的理由はあるのだろうか。
 バルガス・リョサは「読者の醒めた目をなんとかかき消し、物語のなかに呑みこんで、まるで魔法にかかったように物語の世界を生きてもらいたい」と言っているそうだが、時間の混乱やエピソードの配列のわかりにくさは、リョサ自身があらかじめたくらんだものであることは間違いない。
 「抜けられない砂漠に囲まれたニューヨークの大スラム」のような、市民社会が十分に成立していないペルーという国。そのペルーの、われわれのイメージ通りに暴力的な陸軍士官学校で、「奴隷」という渾名のひ弱なリカルドが、数十人の悪ガキどもから徹底的にいじめ抜かれる。リカルドを取り囲むのは、陰湿にからみつくツタ植物系の日本のいじめ生徒と違って、尻尾をふる犬の前足をうるさいと言って折ってしまうような筋金入りである。(作者バルガス・リョサ自身、子供の頃通っていたカトリック系の名門校から、「息子の根性を叩き直したい」父親によってこの士官学校に入れられたらしい。)
 リカルドの小さい頃から両親の仲が悪く、ウェスタン映画に出てくるような乱暴者の父親は妻だけでなく、リカルドにも暴力をふるう。おまけに好きだった女の子は気の弱いリカルドに飽きたらず、他の少年たちと大人の遊びをまね始める。行き場のないリカルドはそんな都会の世界から士官学校へ逃げ込むように入学したのだった(p353)。
 士官学校では、悪ガキどもが学期末の試験問題を夜中に盗み出すが、運悪くリカルドはそれを目撃してしまう。仲間はずれにされたリカルドは、悪ガキの問題盗みを将校にチクってしまう。あまりの寂しさに、密告の褒美として、母親のもとへの外出許可が欲しくてたまらなくなったのだ。しかし、その後しばらくして土曜日の野外演習のとき、銃弾がリカルドの後頭部に当たって、リカルドはあっさり殺されてしまう(p191)。学校はそれを、引き金に指を当てたまま転んで自分を撃ってしまった事故だと外部に説明する(p242)。
 学校が公式の見解を貧乏な母親に伝える、紋切り型の哀悼の言葉がp256にある。この馬鹿馬鹿しい挨拶は、いじめで自殺した生徒の葬儀会場で読まれる、日本の学校教育委員会の弔辞そのままである(まぁ、カネのことは日本では言わないだろうが)。沈痛な面持ちをしたTVアナウンサーの決まり文句そのまんまである。
 「リカルドはじつにすばらしい生徒でした。将校や下士官から信頼され級友たちの模範でした。たいへん勤勉で、教師たちによく褒められていました。その彼がいなくなって、寮舎のなかはもう灯が消えたみたいになっています。野外演習でリカルドは怖気づくことなく、危険な任務を果敢にやり遂げたものです。人生には、予期せぬ悲しい出来事が起こりますが、私たちはその悲しみを乗り越えていかねばなりません。・・・この葬儀に際しては、いっさいの心配はご無用です。費用はすべて学校側が負担いたします・・・」
 宗主国スペインは、規律と組織の国イギリスとちがって、南米に組織的な近代産業をまったく育てず(本国そのものにも育たなかったが)、それゆ雇用の仕組みも作ることなく、ただ植民地官僚のほしいままに略奪を行って放置した。0.1%の人間が全部の冨の50%を持っているような南米の国々には、作者のいう「魔法にかかったような話」が「魔法にかかったような街」のどこにでもゴロゴロ転がっているのだろう。
 このような国には、日本でさえおいしいところを少しかじろうとした、西欧近代の大きな物語は一度もやってこなかった。そしてそのまま、今度は世界を覆うポストモダンの混沌の中に、秋葉原の群衆の中でのように、個人の一人ひとりが溶け去っていく。