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小川洋子 『ことり』(朝日新聞出版)

 二、三年前に読んだ『猫を抱いて象と泳ぐ』は、デパートの屋上動物園から下りられなくなった子象や天才チェス棋士の肩に止る白い鳩や、そのような、言葉によって世界を分節することを諦めたものたちの運命が、読み終えた後も数日間にわたって心に浸潤し続けるような良品だった。登場する人間も、自分の来し方と行く末をほとんど語らない寡黙さによって、見えない世界のどこかにある香しさの探し方を伝えてくれた。
 今回も、幼稚園の鳥小屋で飼われている小鳥のさえずりが、(白亜紀に恐類から進化して以来)哺乳類―人類系で進化した言葉の美しい起源であることを、作者にしか語れない繊細な表現で「証明」してくれている。

 p13
 僕と、当時十三歳だった(鳥の言葉がわかる)自閉症の兄の大好きな場所は、家からほど近い幼稚園の裏庭に付属した一坪ほどの小鳥小屋だった。僕と兄は、道路と幼稚園を仕切る金網フェンスに子供の体形に合ったくぼみができるほど、毎日そこで小鳥たちを何時間も眺めるのだった。
「どうしてこんなに鳴くの?」と僕は聞いた。
「鳴いているんじゃない。喋っているんだ。小鳥たちは僕たちが忘れてしまった大昔の言葉を喋っているだけだ」
 p15
 「小屋の小鳥たちは、何か、考えているんだね」 二度、三度、首をかしげる小鳥たちの様子は、弟の僕には何かとても不思議な問題について考えているとしか思えなかった。
「そう。そのとおり。この小鳥たちは、僕たちが何者か、考えている」
「あんなに小さな頭で?」
「大きさは関係ない。鳥の目は顔の両側についてる。だからものをじっと見ようと思ったら、首をかしげなくちゃならない。生まれつき、考える生き物だ」
「でも一体、何を考えているんだろう」
「僕たちが思いもよらない問題について。たとえば群れ立って空を渡るときの暗号について・・・・・」
「ふうん、そうか・・・・・・・」
 世の中の身も蓋もないことを、いまさら言挙げしても仕方がない。私たちの言葉は、戦いを有利に進めるためにだけ文法を整え、語彙を増やしたが、鳥たちは、人間がどんなに装備を整えても到底たどり着けないような場所を目指すために、人間には解けない秘密の暗号を知っている。そして、その小さな全身そのものを、だれにも危害を加えない暗号一つに変えて、何のためらいもなく、不満ももらさず、途中でカロリーも補給せず、命さえ惜しまずに渡って行く。