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村上春樹 『国境の南、太陽の西』(講談社文庫)

 男性には直感的に見とおすことのできない「女性性」というものの――そんなものがあるとすればだが――奥深さ。村上春樹が初期のころから書いてきて、特に若い年代の読者から支持を受けてきたテーマが、この本でも甘く、せつない長編抒情詩になって繰り返されている。

 小説が始まって10ページほどに島本さんという、主人公「僕」の後年の半生を大きく揺り動かすことになる同級生の少女が出てくる。この島本さんと「僕」が出会ったとき、「僕」のなかで何が生まれたのかについて書かれたロマンティックな文章はとても美しい。

 p22-3

 彼女は間違いなく早熟な少女であり、間違いなく僕に対して異性としての好意を抱いていた。僕も彼女に対して異性としての好意を抱いていた。でも僕はそれをいったいどう扱えばいいのかわからなかった。島本さんだってたぶんわからなかっただろう。彼女は一度だけ僕の手を握ったことがある。どこかに案内するときに「早くいらっしゃいよ」というふうに僕の手を取ったのだ。

 そのときの彼女の手の感触を僕は今でもはっきりと覚えている。それは僕が知っているほかのいかなるものの感触とも違っていた。そして僕がそのあとに知ったいかなるものの感触とも違っていた。その五本の指と手のひらの中には、そのときの僕が知りたかったものごとが、まるでサンプルケースのように全部ぎっしりと詰め込まれていた。彼女は手を取りあうことによって僕にそれを知らせてくれたのだ。そのような場所がこの現実の世界にちゃんと存在することを。

 僕はその十秒ほどのあいだ、自分が完ぺきな小さな鳥になったような気がした。僕は空を飛んで、風を感じることができた。空の高みから遠くの風景を見ることができた。その事実は僕の息を詰まらせ、胸を震わせた・・・・・。

 村上はもう一つ、上のこととはまったく逆に、ふつうの人が、ただ生きているだけで、悪をなしうる存在であることをはっきりとした言葉にしている。「僕」は高校三年のとき、親密な間柄にあったガールフレンドのイズミを裏切り、イズミの従姉と何十回も関係をもって、イズミの人格を破壊してしまう。

 p66 

 もちろん僕はイズミを損なったのと同時に、自分自身をも損なうことになった。僕は自分自身を深く――僕自身がそのときに感じていたよりもずっと深く――傷つけたのだ。そこから僕はいろんな経験を学んだはずだった。でも何年かが経過してからあらためて振り返ってみると、その体験から学んだのはたった一つの基本的な事実でしかなかった。それは、僕という人間が究極的には悪をなしうるという事実だった。

 僕は誰かに悪をなそうと考えることは一度もなかったが、でも思いや動機がどうあれ、僕は必要に応じて身勝手になり残酷になることができた。ほんとうに大事にしなくてはいけないはずの相手にさえも、僕はもっともらしい理由をつけて、取り返しがつかないくらい決定的に傷つけてしまうことのできる人間だった。

 悪をなす自分の人格に対する自覚がどうあれ、悪は悪である。そして当然の報いとしてこの小説の中で、「僕」はさまざまの厳しい試練にさらされることになる。