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 養老孟司 『バカの壁』(新潮新書)

 10年前、発行と同時に大ベストセラーになり、今年で104刷を数える、誰でも知っている本だ。この本を書店で手に取った人たちは、『バカの壁』という変わった書名は毒舌家の養老先生だから、やれ「個性」だ、「健康」だ、「自然」だと吹いて回るマスメディアや、その尻馬に乗っていい加減な「科学的」言説をのたまう評論家や、すぐに仕事を辞めてしまって「自分探し」をしようとする若者、そんな「バカ」たちが壁のようにそそり立って世界の正しい理解を妨げている・・・・・・それくらいの意味だろうと思ったに違いない。じつは私自身がそうだった。そういう毒舌はいくら言ってもただの愚痴にしかならないので、養老先生の一風変わった、頭の回転が速すぎてときどき重要な接続文(語)が抜けたりする話し方は大好きなのだが、読んでみようという気が起きなかった。
 ところが、「バカの壁」とはまったくそういう意味ではなかった。人は誰でも、自分の脳に入ることしか理解できない。学問であれ、世間のことであれ、わたしたちが最終的に突き当たる壁は自分の脳だ。だからだれもが「バカの壁」を持っている。そういうとても力の限定された脳でもって、わたしたちは世界をまるごと理解しようとしている。わたしたちはそういうことしかできない。そういう意識を持って「世間のいう正解」を見直してみよう・・・・・というしごくまっとうな意味だった。

 p25−6 反証されえない理論は科学的理論ではない
 「科学的事実」と「科学的推論」は別物です。温暖化で言えば、気温が上がっている、というところまでが科学的事実。その原因が炭酸ガスだ、というのは科学的推論。地球環境や気候などという複雑系の考え方で言えば、自販機にコインを入れれば必ず缶コーヒーが出てくるというような簡単な原因―結果の推論がそもそも科学的か、という疑問さえありますが。
 しかしこの事実と推論を混同している人が多い。特に官庁の人などは、「国際会議で世界の科学者の八割が、炭酸ガスが原因だと認めています」と言う。役人にとっては科学は多数決で決まるものなのでしょう。私に言わせれば「科学的事実」ですら一つの「解釈」であることがあるのですが。
 たとえば、ここにいかにも「科学的に」正しそうな理論があったとしても、それに合致するデータをいっぱい集めてくるだけでは意味がない。「すべての白鳥は白い」ことを証明するには白い白鳥をいくら集めても意味はありません。「黒い白鳥は存在しない」ことを証明しなければなりません。しかしある物事の非存在の証明は、一般的に言って大変難しいものです。
 進化論を例にとれば、「自然選択説」の危ういところも、反証ができないところです。「生き残った者が適者だ」と主張されても、そうですか?、としか答えようがない。主張する側も、こちら側も、根拠となる材料を持っていないのですから。「選択されなかった種」は既に存在していないのですから。主張する側の説明が理にかなって見えたとしても、それは現在における結果を説明しているだけで、「生き残らなかった種」がどう環境に不適合だったかの証明はできないわけです。

 p76−8 日本語の定冠詞と不定冠詞
 英語では、テーブルの上にリンゴがあって、それが視覚情報として私の脳みそに言語活動が起こったとします。その時は「an apple」です。不定冠詞がつくときは脳内の活動にすぎないのです。
 では次に、そのテーブル上のリンゴを本当に手でつかんでかじってみます。この時点でようやく実体としてのリンゴになります。それが英語では「the apple」になります。実体となったから定冠詞がつく。
 われわれ日本人が英語の勉強でさんざん悩まされた不定冠詞「a」と定冠詞「the」の違い。日本語にはその概念がないとされています。本当でしょうか。テーブルのリンゴを見て、次に手に取ってかじる、その同じ行為をしながら日本人だけが脳の中でイギリス人とは別の処理をしている、なんてことはあるのでしょうか。
じつは、英語の定冠詞と不定冠詞のような区別は日本語の中にも存在している。あるのだけれども、専門家は形式的な西欧語の文法の知識で定冠詞、不定冠詞にこだわるからわかりづらいだけです。
 「むかしむかし、おじいさんとおばあさんがおりました。おじいさんは山へ芝刈りに・・・・」という一節は誰でも知っています。では、この「おじいさんとおばあさんが」の「が」と、次の「おじいさんは」の「は」の助詞の違いを説明できますか。
最初に「おじいさんとおばあさんがおりました」と言うときには聞き手の子供に、「おまえの頭の中に爺さんのイメージと婆さんのイメージを浮かべろ」と言っている。子供にとって特定の爺さん、婆さんを浮かべろと。浮かんだら、今度はそのおじいさんが物語の中で動き出します。次に、「おじいさんは山へ芝刈りに」と言うときには、その特定のおじいさんが動き始めるわけです。
 見事にこれは定冠詞、不定冠詞の機能をそのまま持っている。ところが文法学者は学生時代に倣った西欧語由来の形式文法をそのままやっているため、「冠詞」と書いてあるから、冠だから、名詞の前に使わなきゃ冠詞じゃない、と思ってしまう。それは助詞だろう、と。
 しかし、形式を無視して言えば、機能としてはまったく同じです。ちなみにギリシア語を調べると、冠詞は名詞の後ろにあっていいことになっている。要するに、「むかしむかし、おじいさんとおばあさんがおりました」のおじいさんは視覚がとらえたリンゴ(an apple)であり、「おじいさんは山へ芝刈りに」のおじいさんは手でつかんでかじった実体としての「the apple」なのです。