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リチャード・C・フランシス 『エピジェネティクス』(ダイヤモンド社)1/3

 エピジェネティクスとは「遺伝子によらない遺伝の仕組みを探求する学問」のこと。池田清彦氏が『遺伝子不平等社会』で書いているように、発芽したイネの種子(これは2n個の染色体を持つ普通の体細胞である、n個の生殖細胞ではない)を脱メチル化剤(メチル基CH3を失わせる薬剤)で処理するとイネの背丈が本来より低くなる。背丈を調節する遺伝子が脱メチル化されて、遺伝子そのものは変化しないにもかかわらず、その発現がコントロールされたと考えられる。この脱メチル化は回復せず、次世代に遺伝される。イネのほかにも、植物の世界では脱メチル化による形質変化の遺伝の例はよく知られている。
 遺伝子の実体はDNAである。有名な二重らせんの形をしている。しかし、この二重らせんは細胞内でむき出しになっているわけではなく、そのまわりに多様な有機分子の集合体が付着している。上記のメチル基(CH3)もそのひとつである。そしてこれらの多様な有機分子は長期間、ときには生涯を通じてずっと遺伝子に付着し続ける。この圧倒的に多種多様な有機分子の作用が遺伝子の発現に影響しないわけがない。
 これまで遺伝子には、遺伝にまつわる情報がすべて書き込まれているとされてきた。それを解読すれば自分がどんな可能性を持っていてどんな人生を送るのか、すべて明らかになるはずだった。それだからこそヒトゲノムプロジェクトは、いかにもアメリカ的に前向きに、十三年の時間と三十億ドルの費用を投じて、人間の全ゲノムを解読した。にもかかわらず、完全なクローンである一卵性双生児が微妙に顔が異なり、考え方はかなり異なり、行動にいたっては全く異なることがあるのはなぜなのか・・・・この簡単な疑問ひとつに答えはまったく出せていない。これからも出そうにない。
 「遺伝」は遺伝子という監督によって指揮される現象ではない。その逆に、環境に影響された細胞中の生化学物質こそ遺伝子の発現をコントロールしているのであり、遺伝子は「遺伝」という舞台においては「大部屋俳優のひとり」にすぎないことが、本書で明らかにされる。

 序文
 p3
 エピジェネティックな変化とは、DNA配列は変化しないまま、DNA発現のタイミングや他のDNAとの協調が長期的あるいは恒久的に変化することを指す。
 p5
 一卵性双生児のエピジェネティックな違いは生涯続く。その違いのせいで二人はアルツハイマーやがんなどさまざまな病気のかかりやすさも違ってくる。がんに対するエピジェネティクスは特によく研究されている。がん細胞内では、多くの遺伝子が正常なメチル基を失っている。すなわち脱メチル化されている。脱メチル化は、さまざまな遺伝子活動の異常をひきおこす。細胞増殖を抑制できなくなるのも、その一つである。じつをいえば、あらゆるガンに共通する顕著な特徴は、なにか特定の変異ではなく、遺伝子の脱メチル化なのだ。
 これはむしろ喜ばしいニュースである。なぜなら、突然変異と違って、エピジェネティックな変化は元に戻せるからだ。医療に関するエピジェネティクスの多くがめざしているのは、病気の原因となっているエピジェネティックな変化を元に戻す方法を見つけることだ。
 もう一つ、活発に研究されているエピジェネティクスの分野は、胎内環境にかかわるものである。双子でない兄弟は、胎内にいるあいだに母親が食べたものや経験したストレスが大きく異なっている場合がある。つまり胎内の環境が子供のあいだでずいぶん異なる。胎盤を通して母親の食事やストレスは胎児に影響するから、その結果もたらされるエピジェネティックな相違によって、肥満、糖尿病、心臓病などにかかりやすいかどうかが違ってくる。うつ病、不安症、統合失調症といった精神疾患についても同じことがいえる。
 p6
 エピジェネティクスはわたしたちの遺伝についての考え方、すなわち、遺伝子とはどういうもので、何をするか、特に受精卵が発生していく過程でどうふるまうかについての考え方を、根底から変えようとしている。これまで遺伝子は、生物の発生の過程を指揮するエグゼクティブと見なされてきた。しかし本書が提唱しようとしている新しい見方では、エグゼクティブの機能は細胞全体が担っており、遺伝子は、細胞に備わる情報源のような位置づけになる。
 遺伝子は細胞にとって物質的な資源にすぎず、タンパク質合成の際にそのプロトタイプの鋳型になるだけである。その後のタンパク質合成の各段階は、細胞全体(の各部の関係性の中)で進められていく。遺伝子がその指揮者になるわけでは決してない。そもそも大前提として、タンパク質合成のどの段階にどの遺伝子が関わるかを決めるのは、細胞全体の(の各部の)関係性であって、遺伝子の役目ではない。遺伝子は細胞全体の各部の関係性のなかでその役割を決められているにすぎない。