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村上春樹 『ラオスにいったい何があるというんですか?』(文芸春秋)

p169-70 p251

 本書のタイトルの「ラオスにいったい何があるというんですか?」は、僕が「これからラオスに行く」と言ったときに、中継地のハノイで、あるヴェトナム人から僕に向かって発せられた言葉です。ヴェトナムにない、いったい何がラオスにあるというんですか、と。

 僕はそのラオスでルアンプラバンという寺院の多い小さな街にしばらく滞在した。日本でいえばさしずめ奈良みたいな、昔は首都だったこともある街だが、規模は奈良よりもはるかに小さい。
 ルアンプラバンの街の特徴のひとつは、そこにとにかく物語が満ちていることだ。そのほとんどは宗教的な物語だ。寺院の壁にはあちこちに所狭しと、物語らしき絵が描かれている。どれも何かしら不思議な、意味ありげな絵だ。「この絵はどういう意味なのですか?」と地元の人々に尋ねると、みんなが「ああ、それはね」と進んでその物語の由来を解説してくれる。どれもなかなか面白い宗教的説話なのだが、僕がまず驚くのは、それほど数多くの物語を人々がちゃんと覚えているということだ。言い換えれば、それだけ多くの物語が、人々の意識の中に集合的にストックされているということになる。その事実がまず僕を感動させる。そのようにストックされた物語を前提としてコミュニティができあがり、人々がしっかり地縁的に結びつけられているということが。

 宗教というものを定義するのはずいぶん難しいことになるが、そのように固有の「物語性」が世界認識のための枠組みとなって機能するということも、宗教に与えられた一つの基本的な役割と言えるだろう。
 当たり前のことだが、物語を持たない宗教は存在しない。そしてそれらの物語は目的や仲介者の「解釈」を必要としない純粋な物語であるべきなのだ。なぜなら宗教というものは、規範や思惟の源泉であるのと同時に、いやそれ以前に、物語の(言い換えれば流動するイメージの)共有行為として自生的に存在したはずのものなのだから。それが自然に、無条件に人々に共有されるということが、魂のために何より大事なのだから。

 「ラオス(なんか)にいったい何があるというんですか?」というヴェトナムの人の質問に対して、僕は今のところまだ明確な答えを持たない。僕がラオスから持ち帰ったものと言えば、ささやかな土産物のほかには、いくつかの光景の記憶だけだ。でもその風景には匂いがあり、音があり、肌触りがある。そこには特別な光があり、特別な風が吹いている。それらの風景はそこにしかなかったものとして、僕の中に立体として今でも残っているし、これから先もけっこう鮮やかに残り続けるだろう。

 それらの風景が具体的に何かの役に立つことになるのか、ならないのか、それはまだわからない。たいして役には立たないまま、ただの思い出として終ってしまうかもしれない。しかしそもそも、それが旅というものではないか。それが人生というものではないか。(逝った幸子のために)