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村上春樹 『辺境・近境』(新潮文庫)

 ノモンハンの鉄の墓場

 p167-8

 ぼく(村上)が強くこの戦争に惹かれるのは、この戦争の成り立ちがあまりにも日本人的であったからではないだろうか。
 もちろん太平洋戦争の成り立ちや経緯だって、大きな意味合いではどうしようもなく日本人的であるのだが、それは一つのサンプルとして取り出すにはスケールがあまりに大きすぎる。それはすでに形を定められた歴史的なカタストロフとして、まるでモニュメントのように我々の頭上に聳え立っている。

 でもノモンハンの場合はそうではない。それは期間にして4か月ほどの局地戦であり、今風に言えば「限定戦争」であった。にもかかわらずそれは、日本あるいは日本人の「非近代」を引きずった戦争観=世界観が、兵站を何よりも重視するソビエト(あるいは欧米=非アジア)という新しい組み換えを受けた戦争観=世界観に完膚なきまでに撃破され蹂躙された最初の体験であった。

 しかし残念なことに、軍指導者はそこからほとんどなにひとつとして教訓を学び取らなかったし、当然なことながらそれと全く同じパターンが、今度は圧倒的な規模で南方の戦線で繰り返されることになった。ノモンハンで命を落とした日本軍の兵士は2万足らずだったが、太平洋戦争では200万を超す戦闘員が戦死することになった。彼らはどの戦線でも、日本という密閉された組織の中で極めて効率悪く殺されていった。この「効率の悪さ」を、あるいは非合理性というものを、我々はアジア製と呼ぶことができるかもしれない。

 今ではぼくらは日本という平和な「民主国家」の中で、人間としての基本的な権利を保障されて生きているのだと信じている。でもそれは本当だろうか。表面を一皮むけば、そこにはやはり以前と同じような密閉された国民意識なり理念なりが脈々と息づいているのではあるまいか。

村上春樹 『アフターダーク』(講談社文庫)

  場所は大都市の片隅。自室でただ眠り続ける美人の姉。ファミレスで本を読んで夜をやり過ごす妹。ラブホテルで中国人の女を襲うごく普通に見える変質者。何年か前、ヤクザを裏切って背中に焼き印を押され、日本中を逃げ回っているラブホテルの従業員。登場人物全員が家族とか地域とかのつながりをまったく持たない。彼らをかろうじて繋いでいるのは深夜11時ごろから明け方までの、全人類共通の暗闇(=アフターダーク)の時間帯だけ。そんなつながりはつながりではなく、彼らがまったく孤独であることを浮き立たせているだけだ。

 無駄のない場面設定も、知的会話のできる登場人物の配置もとても村上的。そのうえ配役の会話がひじょうにわかりやすく、すいすい読める。そうはいっても、小説の冒頭から最後まで眠り続ける姉は何を象徴しているのだろう。地球がある日突然回転をやめても彼女は眠り続けるだろうから、彼女は自分を含む宇宙全体に関心がないのだ。宇宙がどんな美人にも、モーツアルト交響曲41番にもアインシュタインの宇宙方程式にも無関心であるように。

 主人公のマリと昔ヤクザにひどい目にあったコオロギという女が、小説の話の本流とはほとんど無関係と思えながら、実はしっかりつながった会話をしている。

p242-4

コオロギ「なあ、マリちゃんは輪廻みたいなものは信じてる?」

マリは首を振る。「たぶん信じてないと思う」

「来世みたいなものはないと思うわけ?」

「そういうことについては深く考えたことないんです。来世があると考える理由がないみたいな気がする」

「死んだら、あとは無しかないと」

「基本的にはそう思っています」とマリは言う。

「私はね、輪廻みたいなものがあるはずやと思ってるの。というか、そういうものがないとしたら、すごい恐い。無というものが、私には理解できないから、理解もできんし、想像もできん」

「無というのは絶対的に何もないということだから、とくに理解も想像も必要ないんじゃないでしょうか」

「でもね、もし万が一やで、それが理解やら想像やらをしっかり要求する種類の無やったらどうするの?マリちゃんかて死んだことないやろ。そんなの死んでみないと分からんことかもしれんで。そういうことを考え始めるとね、じわじわと恐くなってくるんよ。息が苦しくなって、身体がすくんでしまうんよ」

プルースト 『失われた時を求めて 13・14 見出された時』(岩波文庫)13/13

 第13巻の4分の1ほどで、読む根気がとうとう尽きてしまった。14巻の本文は全く読まず、吉川教授の簡単な「まえがき」と詳細な「あとがき」を斜め読みした。

 「まえがき」によれば、本作の大団円となるゲルマント大公邸における午後のパーティ描写から最終巻は始まっており、そこで書斎から出てサロンに入った「私」は出演者に昔の面影を認めることができず、皆が白い髭をつけ、髪に粉を振りかけて変装したように見えるのに面食らう。「私」が療養のせいで社交界から遠ざかっていた間に、全員が年を取ったからである。
 「私」よりずっと若いはずの亡きスワンの娘ジルベルトからは「わたしのことをスワンの妻だった母のオデットだと思ったでしょと皮肉を言われ、ある老婆からは「わたしは誰でしょう?」と問いかけられても、彼女がユダヤ人の元娼婦で今や大女優のラシェルだとはわからなくなっている。 
 ・・・パーティの出席者たちから、思わぬ老人扱いをされた「私」はそれまで意識せずにいた自身の老いを、明るい光のなかにまざまざと見出すことになる。そして療養に入る前から決心していた自らの半生記執筆をさっそく始めようとするのだが、そんなある日、階段を降りるときに三度も転びそうになる。この状態で「私」が思い定めた作品の構想をすべて実現するのは無理だろう。だがしかしすくなくとも何人かの人間を「きわめて広大な場所と時間の中に占める存在として描く」ことは可能ではなかろうか、そう「私」が決意するところで『失われた時を求めて』全14巻は幕を閉じる。

  「あとがき」吉川教授がで書いているように、「私」が書こうとしている作品は、「私の過去の人生を素材にして、時間の埒外に存在する真に充実した人間を、写実主義の手法をとらず、夢の効用を援用しながらシュールレアリスティックに描き出す」というのだから、これはもう『失われた時を求めて』で私たちが読んできた素材とその扱い方そのものに他ならない。そして「私」はこれを書くことこそ「私」の天職であることを発見したといまさらのように言う。つまり老いた「私」が書こうとしているのは、プルーストというたぐいまれなシュールレアリスト小説家の存在根拠を示そうとする小説なのであり、小説の中で小説が循環する超小説だといえる。

  ところで。話は急降下する、というわけでもないのだがが、プルーストはデュマやバルザックフローベールが書いたようなレアリスム作品を書くことには全く向いていない。プルースト自身が何度も言っていることだが、恋愛はデュマやバルザックフローベールが書いたような、相対する二者がよく似た感情を高ぶらせるところに発生するものではない。そうではなくて、恋は片方だけでも「自分の方程式にのっとって相手を恋している」と思い込めば十分に成立するものであり、恋の途中の波乱はその時々の一方の心臓または視力の波乱を映し出しているものに過ぎない。

 もちろんこういう「恋愛=一者または二者の独善論」が成立することも世の中にはあるのだが、プルーストに一蹴されそうな「恋愛=長続きする二者の美しい幻想論」の実例も、現実の世の中や小説の中には枚挙にいとまがないことは、きわめて多くの読者の認めるところではなかろうか。私が何が言いたいのかと言えば、プルーストが何度小説の小説を書こうとも、出版社はあまりいい顔をしないのではないかということである。

 最終回だから少し長くなるが、井筒俊彦氏の「ユング的深層意識論」を俟つまでもなく、表層意識のだいぶ奥のほうには、次第に表層意識化への胎動を見せる無意識領域のほか、言語アラヤ識領域といわれる領域がある。ここは意味的「種子」(例えば「恋」)が「種子」特有の潜勢性において隠在する場所であり、ユングのいわゆる集団的無意識あるいは文化的無意識の領域に当たる。ここでの例えば「恋」の隠在の形態は民族や人種や教養や経験でかなり異なり、「恋」が美しい事象のニュアンスを帯びたり、逆に悪いニュアンスを帯びたりする。
 この言語アラヤ識領域よりも表層意識に近いところにあるのが「想像的」イマージュの場所であり、さきの領域で成立した基本イマージュはここで様々な具体的言語イマージュとして生起し、経験的事物に象徴的意義を与えたり、存在世界を一つの象徴的世界として体験させるといった独特の機能を発揮する。

 つまるところ、プルーストの「愛」と「恋」にはそれを担う人間の横の広がりが乏しかったのではないか。あれだけ多くの男女が登場しながら彼・彼女らはかなり良く似た愛と恋のパターンを演じているのではないか。パリの空の下、千人の貴族や十万人のブルジョアがそれぞれ微妙に違った愛や恋の種子を持っている・・・・プルーストは、これからの作家はそういう独自の意識を生み出すまったく違うフィルターを、社会階層とか教養階層とかに何十種かずつ持たせてからしか、新しい小説はもう生み出せないと予言すべきではなかったか。
 端的に言えば、彼のころから始まろうとしているブルジョアの新しい世紀にはプルーストは、いかにも滅びゆく階級の先頭にいるものにふさわしく、対応力を持たなくなっていたのではないか。

 

 

★プルースト 『失われた時を求めて12 消え去ったアルベルチーヌ』(岩波文庫)12/13

 本篇冒頭で、「私」の「囚われの女」だったアルベルチーヌが出奔してしまう。本篇は600ページを超す長大なものだが、その半分以上が不在となった恋人をめぐる「私」の心中の苦悶の描写にあてられている。縺れ合ってほぐせない大きな漁網か、捻転した小腸の絡み合い具合を説明するような、恋心と猜疑心をつづるプルーストのことばの織物は、よほどの忍耐の気持ちがないとただ読むだけでも相当にしんどい。

 訳者の吉川教授も書く。「本篇は、恋人を失った悲嘆が少しずつ癒えていく心中のできごとにのみ数百ページを費やした特異な文学である。これを読了した人は、プルーストの文学がレアリスム小説の対極にあって、いかに豊饒な精神のドラマを展開しているかを実感したことであろう。その意味では本篇は『失われた時を求めて』のなかで最もプルーストらしい巻といえるかもしれない」

 私のようなレアリスム小説しか経験のない読者を悩ませるプルーストらしさは、アルベルチーヌが囚われの女として登場する第10巻以降、たしかにいや増しになる。毎年ほぼ2巻のペースで発行されてきた『失われた時を求めて』もあと2巻になったが、どうも自分の我慢はこれ以上続いてくれそうにない。
 そんな、猜疑と焦燥に取りつかれた「私」に、やがて彼女の事故死の知らせが届く。「私」はその死にたじろぐが、いっぽうでアルベルチーヌの、周囲の女性たちとの激しい性愛関係を彼女の友人・アンドレから露骨に知らされて、恋人の死の衝撃は彼女の人間性そのものへの諦念を含んだ悲しみに変わっていく。そして何か月かの時間がたち、そんな疑念や悲嘆もしだいに忘却なかへ消えてゆき、3巻にわたったアルベルチーヌへの恋もついに終わりを迎える。

 「私」の長い恋を終わらせたきっかけになったのがアルベルチーヌのおぞましい放蕩の報告であったのは間違いない。恋が終わったとき、あれほどアルベルチーヌに恋い焦がれ、彼女の性癖に関するかずかずの噂を信じないことにしていた「私」は、もうアンドレの報告を「嘘だと考える必要はなかった」と考えるようになっていた(p422)。

 吉川教授は「ここにはプルーストの根本認識が表明されている」と言う。「人間の振る舞いを決めるのは、その人にとって都合のいい「思い込み」、そうにちがいないと「信じ込む」力だという認識である。恋愛感情なるものは、この思いこみの最たるものである。愛する女の堅固な素材をすべて提供して、その目鼻立ちを美しく作り上げるのは、われわれ自身なのだ」と。

 ところで巻の中ほどに、原題に含まれる<le temps perdu >の語句は普通、<無駄にすごした時>の意味に使われるという面白い訳注があった。だから本国フランスのある批評家は本作のタイトルは『無駄にすごした時を求めて』というばかげた意味になると皮肉ったことがあるそうだが、これは痛烈な、ある意味根本的な指摘ではないだろうか。レアリスム小説を好む人にとっては、プルーストの「豊饒」な精神のドラマは「時間の無駄遣いドラマ」でもあるのだから。もちろん宇宙の「時間」は私たちに全く関心がなく、時間を使うのに有意義も無意味もあったものではないのだが。このことについては第4巻についての本ブログでもちょっと触れた。

★プルースト 『失われた時を求めて 11 囚われの女2』(岩波文庫)11/13

 「私」は、やっとの思いで手に入れて、いまは自分の家に囲っているアルベルチーヌを、じつは少女時代からゴモラ(男も愛せるレズビアン)ではないかと深く深く疑っている。疑いの間接的な証拠は実際にいくつもあるのだが、これでもかこれでもかと読まされる者はその「私」の疑念と嫉妬のしつこさにはほとほとうんざりしてしまう。
 アルベルチーヌは「囚われの女」ということになっているが、実際にはただ自分の性向に従うだけの奔放で下品な市民階級の女であるにすぎない。彼女を自分の家に軟禁しながらも彼女の言葉の端々に翻弄される「私」(=プルーストの分身)こそ自分の脳の生理機序に捕えられた囚人である。だいたい自分のものにした女を物理的に自宅に軟禁するということが、すでに「私」の性癖の異常性を証明している。ここまで読んできてプルースト(=「私」)が普通人でないことはよく理解できるのだが。

10巻・11巻は「囚われの女」の上・下巻だが、8巻・9巻のソドムとゴモラの話がこの2巻でもずっと続いているのでプロット上の起伏はほとんどない。あと3巻だけだから通読したいと思うのだが、この巻の「私」の、ああでもない・こうでもないが続くようなら買いはしても本棚に並べるだけかもしれない。

 吉川教授は書く。「プルーストは、読者のこのような反応を予期していたのか、「私」のアルベルチーヌへの疑念は「私」自身の浮気な欲望の反映にほかならないと、こんな弁明じみたことを書く。「「私」が完全に恋人に忠実なだけの人間であったなら、相手の不実など思いつくことさえできず、それゆえ相手の不実に苦しむこともなかったであろう。ところがアルベルチーヌのなかに「私」が思い浮かべて苦しんでいたのは、新たな女たちに好かれたい、小説じみた新たな冒険のきっかけをつくりたいという、「私」自身の絶えざる欲望であったのだ」と。

 プルーストの異常にしつこい恋愛心理の分析は、このように、人間は究極的には猜疑心の塊りであるであるというシンプルきわまりない洞察に基いている、それは<男と女>であれ<男と男>であれ<女と女>であれ変わらない、というわけだ。

★プルースト 『失われた時を求めて 10 囚われの女』(岩波文庫)10/13

 バルベックの保養地で見初め、「私」がやっとの思いで手に入れた美しい少女アルベルチーヌ。本巻は、そのアルベルチーヌがバルベックで一瞬そぶりを見せたようにやはりレズビアンなのではないか、あるいは男も悪くないと思ってパリのどこかで会っているのではないか、と「私」が嫉妬と疑心暗鬼に囚われてああでもない、こうでもないと悩みの底に沈み込むさまが400ページ以上の全部にわたって描写される。途中に2か所、アルベルチーヌとの会話の中で「私」の実名がマルセルだと明かされるところがある。読者はわかってはいたことだが全14巻を貫く語り手であり主人公である「私」はマルセル・プルースト本人なのだ。

 嫉妬の牢獄に囚われた「私」は、そこから少しでも心理的に解放されるために、実生活の上ではアルベルチーヌに見張り役を付けて、彼女がどこに行くのにも見張り役を同行させる。予定時間には必ず帰らせ、彼女がどんな行動したかを逐一報告させる。アルベルチーヌを「私」の「籠の鳥」として幽閉したようなものだ。囚われの女という題名はここから来る。しかし「私」の不安はそれでもおさまらない。監視役とアルベルチーヌは通じていないとは限らないからだ。

 さんざん苦労して手に入れたアルベルチーヌを、手に入れた後では「私は彼女をもはや愛していないことは明らかだった」と冒頭部で言わせていたり、そのくせアルベルチーヌが叔母の家に生きたがるとその理由をしつこく聞いて見張り役を付けたり、あげくは見張り役が二重スパイなのではと疑ってみたり・・・・・、「私=マルセル・プルースト」が自分で掘ったエゴイズムの深い井戸は底を知らない。以下はそんな身勝手な男をしねくねと出がらしになるまで煎じ出した一節。

 p387-9

 ・・・私がかつてアルベルチーヌに目を奪われたのは、相手を神秘の鳥とみなしたからで、皆の欲望をそそって誰かのものなっているやもしれぬバルベック・リゾートの大女優とみなしたからにほかならない。ある夕方、どこから来たのかも定かでないカモメの群れのような娘の一団に取り巻かれて堤防の上をゆっくり歩いてくるのを見かけた、そんな鳥であったアルベルチーヌも、ひとたびわが家の籠の鳥と化すと、ほかの人のものになる可能性を一切喪失するとともに、あらゆる生彩を喪失してしまった。
 かくしてアルベルチーヌは少しずつその美しさを失ったのである。私の嫉妬はたしかに想像上の楽しみの減退とは別の道をたどりはしたが、それでも浜辺の輝きに包まれたアルベルチーヌをふたたび目にするためには、アルベルチーヌが私を抜きにしてほかの女性や青年から話しかけられている姿が想像されなければならなかった。

 そして実際にそのような想像をしてみると、わたしはその女性や青年に対する本物の憎悪に駆られた。そしてその憎悪には、バルベックの浜辺で泳げない恰好をしている私を仲間たちと一緒に大笑いしたアルベルチーヌへの称賛の気持ちが混じっていた。このような恥辱、嫉妬、欲望や輝かしい景色の思い出が、今や囚われの女となったアルベルチーヌにふたたび昔の美しさと価値を付与したのである。
 そんなアルベルチーヌ、私の部屋でそばにいるかと思えば、ふたたび自由を与えられ、私の記憶のなかの堤防の上で例の陽気な浜辺の衣装をまとって海鳴りの音楽に合わせてふるまうアルベルチーヌ、あるときはその環境から抜け出し私のものとなってさしたる価値もなくなり、あるときはその環境へ舞い戻り、私の知るよしもない過去のなかへのがれて、波のしぶきや太陽のまばゆさに劣らず私を侮辱する、そんなアルベルチーヌは、いわば水陸両棲の恋の対象だったのである。

★プルースト 『失われた時を求めて 9 ソドムとゴモラⅡ』(岩波文庫)9/13

 前の巻に続いて主要登場人物のソドム(男性同性愛)とゴモラ(女性同性愛)が語られる。いま小説で同性愛を書いても何も新鮮味はないが、プルーストの時代では社会の「良識派」が指弾の標的にするスキャンダルであり、貴族であれば表向きの社交界から招待状が届かなくなってしまうという危険な不行状だった。

 前の巻の冒頭で、しがないチョッキの仕立屋に己が性癖を露わにしたシャルリュス男爵(大貴族ゲルマント公爵の実弟)がこの巻でも主人公だ。シャルリュス男爵は、フランスの公式貴族サロンでは男爵だが、イタリアやスペイン、中欧などでは伯爵や大公を称することができ、しかも音楽や文学などにも造詣がある。
 その社交界の大物がこの巻では、モレルという従僕階級上がりで両刀使いの出世主義音楽家を追いかけまわし、ときどき嫉妬に狂わんばかりになる。女とモレルの密会場面をのぞき見するために娼館にまで出かけるありさまで、娼館の女主人や娼婦に手玉に取られるのだが、このあたり、社会の裏世界事情に疎い大貴族の人間的本性が暴露されていて、なんとも哀れである。

 しかし、前の巻でもそうだったが、この巻でも600ページほどの大部の半分以上を占めるのは、登場人物たちがこれでもかこれでもかと繰り広げる駄弁である。前の巻では、王室に近い大貴族ゲルマント公爵夫人たちが、自分より格下の晩餐会招待者に向かって「だってあなたは私どもと対等なのですよ、私どもより上だとはいわないまでも」という態度を、ドレスと宝石と肩をそびやかす見下し視線によって示しながら、ドレフュス事件の推移やブルジョア・民衆階級の風俗の乱れを「慨嘆」していた。
 
この巻ではその見下される相手の階級が大貴族から新興のブルジョア・知識階級に変っただけである。その当人であるパリ大学医学部や文学部の教授であるコタール、ブリショの開陳する身体症状の医学的分析やフランス各地の地名の語源説はまさに笑止千万そのもの。自分の社会的評判だけを気にして、当面の相手をとりあえず口あんぐりにしておきたいという心根はゲルマントら大貴族のスノビズムと何ら変わりない。
 バルザックの『人間喜劇』が登場人物によって何度も取り上げられるが、『失われた時を求めて』の8巻と9巻は、諧謔精神いっぱいのプルーストが登場人物たちの人間喜劇ぶりを、バルザックの向こうを張って1000ページ以上にもわたって綴ったものとも言える。

 第8巻、第9巻は全巻読破をめざす読者の多くが挫折する難所であるらしい。わたしも、登場人物たちのあまりにむなしい「ことば・ことば・ことば」の連なりに、そのことに配慮しないかに見えるプルーストのおしゃべりに、途中を斜め読みして飛ばそうかという誘惑に何度かかられた。