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小林秀雄 「モオツァルト」

 新潮社版全集8
 p78
 どうして、モオツァルトのすることがすべてモオツァルトらしい形式や手法に従い、他人の手法に従わないかということは、モオツァルトの鼻がどうしてこんなに大きく前に曲がって突き出しているか、そしてそれがまさしくモオツァルト風で他人風ではないか、というのと同断であろう。
 p84
 強い精神は容易なことを嫌う。制約も障碍もない所で、精神はどうしてその力を試す機会を掴むだろう。抵抗物のないところに創造という行為はない、これが芸術における形式の必然性の意味でもある。
 P88
 作者のどんな綿密な意識計画も制作という一行為を覆うに足りぬ、未知や偶然がそこにどうしても滑り込む、それでなければ創造という行為が不可解になる。してみれば、アヒルはアヒルの子しか孵せない、アヒルが白鳥の子を孵すことはないという仮説の下に、人と作品の因果的連続を説く評家たちの仕事は、到底作品生成の秘儀に触れることはないだろう。ヴァレリーが芸術史家を極度に軽蔑したのも尤もな事だ。
 p89
 批評の世界に自然科学の方法が導入されたことは、見かけほどの大事件ではない。批評能力がある新しい形式を得たというにとどまる。
 モオツァルトにとって生活の独立とは、気まぐれな注文を、次から次へとおよそ無造作に引き受けては、あらゆる日常生活の偶然事にほとんど無抵抗に屈従し、その日暮らしをすることであった。一番大切なものは一番慎重に隠されている、自然においても、人間においても。生活と芸術の一番真実な連続が、モオツァルトにおけるような、驚くべき不連続として現れないと誰が言おうか。
 p97
 モオツァルトのtristesse(かなしさ)は疾走する。それは、涙が追いつけるようなかなしさではない。空の青さや海の匂いのように、万葉の歌人がその使用法をよく知っていた「かなし」という言葉のようにかなしい。彼の孤独な魂のアレグロは、人の生の無常迅速よりいつも少しばかり無常迅速でなければならなかったとでも言いたげな鳥のように、低音部のない彼の短い生涯を駆け抜ける。
 p98
 モオツァルトに心の底を吐露するような友は一人もなかったのは確かだろうが、しかしもし、心の底などというものが、そもそもモオツァルトにはなかったとしたら、どういう事になるか。彼は両親の留守に遊んでいる子供のように孤独だっただけである。その孤独には、でっち上げた孤独に伴う自己嫌悪や仮構された観念の影がない。
 p108
 人生の浮沈は、まさしく人生の浮沈であって、劇ではない、おそらくモオツァルトにはそう見えた。劇と観ずる人にだけ劇である。
 近代の所謂リアリスト小説家たちの道は「われわれは、(人生は個性ごとに起承転結を異にする劇である、というように)お互いに誤解しあう程度に理解しあえば十分だ」というヴァレリーの嘆きに行き着かなかっただろうか。ワーグナーは性格的に劇的であったにすぎない。
 P111
 強い精神にとっては、悪い環境も、やはり在るが儘の環境であって、そこに何一つ欠けている処も、不足しているものもありはしない。その精神の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ。この思想は宗教的である、しかし(社会改良家が、人間の幸不幸のありかを外的偶然のなかに探そうとするように、)空想的ではない。モオツァルトの環境がもしもっと善かったらという疑問は、もし彼自身の精神がもっと善かったらという愚問に終わる。
 P114
 モオツァルトはキリストの歌がたまたま同じ時に磔刑になった奴隷頭モノスタトスの歌と一緒に歌われる、そのような世界の音楽である。そこに遍満する争う余地のない美しさが、僕らを否応なく説得しないならば、僕らはおそらくこの世界について、統一ある観念に至るどのような端緒も掴み得まい、そういう世界である。
 P115
 モオツァルトは、天才として、奔流のように押し寄せる楽想に堪えながら、時間というものの謎の中心で身体の平衡を保つ。謎は解いてはいけないし、解けるものは謎ではない。宇宙は、彼の皮膚に触れるほど近く傍らにあるが、何事も語りはしない。黙契は既に成り立っている。宇宙は、自分の自在な夢の確実な揺籃たることをやめない、と。
 宇宙とは何者か。何者かというようなものではない。こころ許す友は、ただ在るがままに在るだけではないのか。彼の音楽は、その驚くほど直かな証明である。それは、罪業に侵されぬ一種の輪廻を告げているように見える。
 僕らの人生は過ぎて行く。だが何に対して過ぎて行くというのか。過ぎて行く者に、過ぎて行く物が見えようか。生は、果して、生を知るであろうか。
 僕たちが何ごとかをなし、何ごとかをなしえないことを、僕たちはこれ以上平らかに明らかに語ることができない。『モオツァルト』を初めて読んだとき、最後の数行を、二十歳の僕は心に刻めなかった。