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内田 樹 「映画の構造分析」(文春文庫)

 『エイリアン』を読む
 p59 
 この映画を私は歴史的な傑作と評価しています。 それはこの映画が、成功した最初のフェミニズム映画として実に巧妙に構造化されているからです。主人公リプリーシガニー・ウィーバー)は、白馬の王子様の救援を待たずに自力でエイリアンを倒す「自立したお姫様」です。リプリーはハリウッド映画が初めて造型に成功した「ジェンダー・フリー」のヒロインなのです。
 アメリカのフェミニストはこの新しいタイプのヒロインに圧倒的な支持を表明しました。リプリーウィーバーはこれ以後、ジョディ・フォスター、デミ・ムーア、メグ・ライアンサンドラ・ブロックジュリア・ロバーツらが演じることになる「男性の暴力に決して屈しない、自立し、自己決定するヒロイン」の原型となります。
 p62
 しかし、この映画の成功にはもう一つの秘密があります。それはこれが「体内の蛇」という古代的な恐怖譚の現代バージョンだということです。「体内の蛇」というのは中世以来ヨーロッパ各地に伝承されている、さまざまなヴァリエーションを持つ怪奇譚です。大体こんな話です。
 若い女が不注意から異類(蛇、トカゲ、蛙など)の卵を飲み込んでしまう。卵は女の胃の中で成長し、腹部が膨張してくる。やがて女は苦しくなり、異物が女の食道をのぼって出てくるとき、窒息して死ぬ、という話です。
 これが妊娠と出産の暗喩であることはすぐに分かります。「体内の蛇」とは、「母になること」に対する女性の側の恐怖と不安と嫌悪を表象したものにほかなりません。ところが、妊娠し、出産し、育児することは、私たちの共同体において、ネガティブな語法で語ることは許されません。私たちの社会では、母になることは喜びとして、祝福されるべきこととして経験「されなければならない」からです。ですから、妊娠させた男性を(男性性器の象徴である)蛇と見なし、胎内の子供を「蛇の子」と感じて嫌悪するような感受性は、当の女性自身によって無意識の深部に抑圧されることになります。
 p64
 ストーリーラインの表面では「フェミニスト・ヒロイン」の冒険譚が粛々と進行します。ハッピーエンドに向かって、すべての映画的要素は、「男性=エイリアン」の攻撃的な性的欲望と戦う自立した女性への応援歌という、分かりやすく、世の中の「政治的に正しい」結末へ向けて収斂してゆきます。
 しかし、表層の皮膚一枚下では、それとはまったく違う「反・物語」が語られています。「エンドマークに向けて、さまざまなエピソードを集約し、すべてのサスペンスに最終的解決をもたらそうとする」流れそのものに抗う「邪悪な力」が、表層の皮膚一枚下で荒れ狂っています。この場所で、フェミニスト・ヒロインは繰り返し凌辱され、傷つき、損なわれ、自立への努力は押しつぶされます。
 『エイリアン』では、後半の残り三○分になってから、つまり物語がハッピーエンドに向けて加速するのにぴたり対応して、いきなり猛然と反・物語的なファクターの乱入が始まります。その一つが、マザーコンピュータによって「会社」、つまり「社会の男性ども」の陰謀をを知ったリプリーと(アンドロイドの)アッシュが、宇宙船のガラス戸越しに見つめあうとき、リプリーの花からは赤い血が出るのですが、アッシュの顔からは白い体液が流れ出ます。二人はその前に怪我をしたのではありません。つまりリプリーの出血とアッシュの白い液体は、アッシュによるリプリーのレイプの暗喩なのです。・・・・・・・・。
 『エイリアン』ほど、一つの物語のうちにこれほど多様な記号の群れが睦みあい、背馳しあい、矛盾しあい、厚みのある和音を奏でている映画は、そう何度もお目にかかれるものではありません。