去年亡くなった大家・丸谷才一が書く弦楽四重奏論(?)。クヮルテットを維持する人事面の微妙さ、四人の仲はいつも微妙にぎくしゃくしているのに、演奏となると実にいいアンサンブルをじっくり聴かせることができる、・・・などという話が、丸谷の学識と教養がいやみなく混ぜられて、延々と続く。そして、この本の「語り手」である元経団連会長の艶聞などがところどころに愉しい形で入ってきて、読む人を飽きさせない。
「持ち重りする薔薇の花」とはなんのことかと思ったが、「クヮルテットというのは四人で薔薇の花束を持つようなものだな。ハイドン、モーツァルト、ベートーベンからボッケリーニ、ラヴェル、バルトークまで・・・・天才たちが自分の天才を見せびらかすように書いた四重奏曲という薔薇の花束を、一人ならともかく四人で持つのは面倒だ。むしろ惑星を四人で担ぐほうが楽かもしれない。惑星が重いのは当たり前だが、薔薇の花束も見かけよりずっと持ち重りしそうだ」という意味らしい。
読後感想を書くのがとてもむずかしい、生きている間に書きたいことを全部書ききってしまった(かのように見える)人のさすがの洒脱な作品である。生きるのに欠かせない苦悩というか世間の灰汁は、「第一ヴァイオリンとチェロの華奢で達者なもつれ合いとせめぎあい」のなかにすっかり溶けてしまっている(原文はもちろん歴史的仮名遣い)。
p110-1
つややかに光る楽器を手にした若者たちは様子がよくて立派だし、彼らのハイドン『セレナーデ』の第二楽章は、亡びゆく宮廷社会の社交と遊びごころの形見でありながら、しかも迫り来る市民社会の分業の記念碑である不思議な儀式の優雅と洗練と生命力をきれいに示している。第一ヴァイオリンとチェロの華奢で達者なもつれ合いとせめぎあいは、たしかに評判になるだけある聴きごたえ充分なものだったし、それを支え補う内声部の二つの楽器、とりわけヴィオラの演奏は絶妙だった。
彼らは、四人でひとつの楽器を鳴らすという、よく言われるレトリックをやすやすと実現している。この若さでたいしたものだ。日本の学校教育とジュリアードの訓練の成果だろうが、西洋のクラシック音楽、とりわけドイツ系の音楽に特有の観念的な厚ぼったさをしっかりと身につけている。
近代日本の芸術や文章は一般になにか洗練を欠いていて、とかく泥くさい感じ、野暮ったい感じになりがちなのだが、その弊をすっきりとまぬがれていて、洒落っ気があり、粋である。
p187
クヮルテットのお客のほうがオーケストラのあれより程度が高いのは、もちろんクヮルテットが音楽のうんと基本の形だからではあるけれど、そのほかにこの人間論的な条件もかなり・・・たしかに入っているような気がしますね。人間関係の面倒くささというまことに無慚な、世俗的な俗悪きわまるものと、芸術という魔法みたいな、天使的なものとが一挙に衝突して効果をあげているのかもしれない。
つまりクヮルテットを組むという四人の人間関係の苦悩がいい味を添えてくれる。十八世紀ヨーロッパの王様や貴族が楽隊に対して味わっていた階級的差別の喜びが、ほんの少し・・・・かなりかもしれないな・・・・われわれ二十一世紀の聴衆にもふりかけてある。一種、宮廷文化的なものの遺産としてね。クラシック音楽というのは観念的な厚ぼったさが大事な要素ですから、そのためには人間的な苦悩というか、悲哀というか、がなければいけない。