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ユヴァル・ノア・ハラリ 『ホモ・デウス』(河出書房新社)2/2

 p242-3

 今後、途方もない量のデータ処理を前にして
 サピエンスは人工知能に卑屈な態度を取らずに済むか

 21世紀の経済にとって最も重要な疑問はおそらく、ほとんどなんでも人より上手にこなす、知能が高くて意識を持たないアルゴリズムが登場した場合、膨大な数の余剰人員をいったいどうすればよいか、だろう。人間至上主義ならぬデータ至上主義に対して、意識のある人間たちはどうすればよいのか。

 データ至上主義が間違っていて、生き物がただのアルゴリズムではないとしても、データ至上主義が世界を乗っ取ることを、われわれは必ずしも防げるわけではない。これまでの多くの宗教は事実に関して不正確であったにもかかわらず、途方もない人気と力を得た。キリスト教共産主義にそれができたのなら、データ至上主義にできないはずがあるだろうか? 

 データ至上主義にとって見通しは明るい。なぜなら現在、データ至上主義は科学の全領域に広まりつつあるからだ。統一されたパラダイムが生まれれば、確固たる教義になるのはたやすいかもしれない。

 データ至上主義が世界を征服することに成功したら、私たち人間はどうなるのか? 最初は、データ至上主義は人間至上主義に基づく幸福と力の追求を加速させるだろう。人間至上主義のこうした願望に充足を約束することによって、データ至上主義は広まる。不死と至福と神のような創造の力を得るためには、人間の脳の容量をはるかに超えた、途方もない量のデータを処理しなければならないのだから。

 そこを、優秀なアルゴリズムが私たちに代わってやってくれる。ところが、人間からアルゴリズムへと実行者がいったん移ってしまえば、人間至上主義のプロジェクトは意味を失うかもしれない。人間中心の世界観を捨てて、アルゴリズムが自分に親和性のあるデータ中心の世界観を受け容れてしまえば、人間の健康や幸福の重要性は霞んでしまうかもしれない。はるかに優れたモデルがすでに存在するのだから、旧式のデータ処理マシンなどどうでもいいではないか。

 私たちは健康と幸福と力を与えてくれることを願って「すべてのモノのインターネット」の構築に励んでいる。それなのに「すべてのモノのインターネット」がうまく軌道に乗ったあかつきには、人間はその構築者から一つのチップへ、さらにはデータへと落ちぶれ、ついには急流に呑まれた土塊のように、データの奔流に溶けて消えかねない。
 そんなとき――それは50年後か200年後か――サピエンスのうち誰が、デウスのようになった人工知能に卑屈な態度を取らずに済むだろう。