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司馬遼太郎 『翔ぶがごとく』 8 文春文庫

 後半、田原坂などで決定的敗北に至る前の、動乱全体の帰趨を左右する「関ケ原」の三つの戦いが描かれる。1882年2月22日・23日の熊本城攻防戦と25日・26日の「高瀬の会戦」だ。 

 結局薩摩軍は熊本城を落とせず、かといって戦争全体の行方に影響なしとして、城を見捨てて東京を目指すということもせず、城付近に兵を止めたまま時間だけが経っていく。この時間の経過が東京で焦っていた山縣有朋内務卿に大きな余裕を与えた。軍備を整える余裕のできた政府軍はその直後にどんどん九州北部に入っていく。

 その間九州にあって、西郷は本当に何の軍令も出さない。会議でもまるでうつけたように何も言わない。作者は、当時誰にも秘されたこととして、西郷が参議を辞職し、薩摩で野山を歩き回っていた時、斜面で足を滑らせて大きな木の株で頭を強打し、その日一日は人事不省だったことを、読者に打ち明ける。東京時代も西郷は決して能弁ではなかったが、帰郷後それが極端になったのはこのことと関係があることを、長いセンテンスではないが強く示唆している。