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司馬遼太郎 『翔ぶがごとく』4 文春文庫

 p116-120

 幕末から明治の草創期、西郷の頭の中には「工業を起こす」という重要な視点が入っていなかった。

 多くの面で西郷の師匠であった元藩主、英明な島津斉彬には、このことについての思想と抱負と政治的実績があった。斉彬はイギリスで勃興した産業革命が欧米を世界の強者にし、その結果アジアが圧迫され始めたという明快な視点を持ち、幕府の要路のものにもそれを説き、すすんで薩摩藩に新しい産業方式を導入しようとした。

 斉彬という存在を歴史の中で輝かせているのは、他の何よりも、藩産業主義を目指していた先覚性であった。例えば水力を動力とする紡績機械の工夫、電信機を製作し電気仕掛けの地雷や水雷の製造、西洋式の硝石製造にヒントを得た強力な火薬の考案などはすべて斉彬が直接指導に当たっている。また反射炉を作って西洋式製鉄工業を起こし、これによって盛んに藩製の大砲を鋳造した。

 西郷にはその思想が乏しかった。革命的産業を興し、貿易のかたちでの製品を内外に売り、その利益を拡大再生産のために投資して、産業をさらに発展させ、藩や国家の収入増大を図るという資本主義の基本理念が西郷にはついに理解できなかったのだろう。

 西郷には、斉彬が持ったような国家構想がなかったという点が、彼が身をひるがえして時勢から去らざるを得なかった重要ななにごとかを暗示している。西郷はその点で斉彬に似なかったというよりも、むしろ資本主義を憎んでいたといった方がいい。

 明治の初頭、資本主義は国家の指導によって育成されようとしていた。力を尽くしたのは長州の井上馨とその元下僚で旧幕臣渋沢栄一であり、大隈重信も多少関与している。この人々は、当然、財閥と一見癒着しているかのようなきわどさで思考し、行動した。ある時は井上馨に重大汚職の疑惑さえ持たれた。

 そのころ参議だった西郷は、井上を心から軽侮して「三井の番頭さん」と公の議論の席上で呼んだが、資本主義をまるで理解できない西郷の心底がよく表れている。

 彼は明治革命の中心人物だったが、いざ革命に成功してみれば、出てきたものは世界の趨勢であるところの、化け物のような資本主義だったということが、気の毒にも西郷の無知からくる悲劇であった。