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阿 純章 要に急がず、不要に立ち止まる 新潮新書

 コロナ禍の日本社会を象徴する言葉になった「不要不急」。この語をめぐって十人の仏教者が考えを述べ合った小論文集。中に一つ天台宗の阿純章(おか じゅんしょう)という僧侶が書いたものが目に留まった。

 P101-2 <いまの社会では、私たちは自分と他者のあいだに境界を設けて対立させて比べ合い、時には争いを起こしてしまう。けれども、仏教の考え方には「無我」という境地も措定されている。

 この「無我」の境地では、自分もこの世界もすべての存在には実体がない。森羅万象がすべて溶けあっている。すべてが溶け合って一つであれば、誰の存在が、上も下も、大きいも小さいもないし、損も得もない。この世界では何もかもが誰のものでもない。。ただ存在が存在しているだけなのだ。

 「無我」の境地から見れば、「我」とは矢印や境界を設けることによって現れる幻影にすぎない。「無我」界においては、誰がどこにいても、どんな状況であろうとそこにいていいし、存在しているだけで価値があるのだ。だから安心してそのまま生きればいいし、みんながそれぞれ違いながらもお互いの存在を認めあえる、そういう世界観だ。

 ・・・岩のようにゴリゴリの私の「我」も 夢幻ののように自由に生きられるというものだ。所詮、生きること以外はすべて不要不急。それだったら、人生滑っても転んでも、ただ生きてさえいればいいではないか。そう思ったら、あまり深刻にならず、心に少しはゆとりができそうだ。