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白川密成 「不要不急」のマンダラ 新潮新書

 本書中で目を留めた二つ目。p180-182

 コロナとの付き合いは長期戦になりそうだ。仮にコロナが終息したとしても、他のウィルスがまた発生する可能性があるだろうし、巨大地震原発事故でもない「何か」が、また忽然と私たちの目の前に現れるだろう。だから今の時点で、少し腰を落ち着けて自分が修行している密教の教えや、これを日本にもたらした空海の思想をヒントに「不要不急」について考えてみたい。

 まずは「曼荼羅」から話を進めよう。曼荼羅真言密教を日本で大成させた空海が、中国から日本にいくつか持ち帰っている。これは無数の仏を描いた画というよりも、密教がその独自の視点で描いた世界や宇宙そのものと言ったほうが、しっくりくる。静かなモノトーンの印象も強い日本仏教の中で、色に満ちて爆発しているかのような曼荼羅には、色だけでなく音や動きなど生命の躍動があり、密教そのものを強く具現化している。

 空海によって日本に伝えられた真言密教曼荼羅は、空海自身が長安で灌頂の儀式を受けた金剛界曼荼羅胎蔵曼荼羅の二つ(両部)が代表的な存在である。本場インドにおいては地域も時代も異なったルーツを持つ二種の曼荼羅が、同時に奉じられているのが日本の真言密教曼荼羅の特徴だ。密教のさまざまな儀式や伽藍においても両者が混じり合い融けあっていることを象徴的に表現しているものが多く、これを「金胎不二」と呼んだ。金剛界と胎蔵のどちらか一つだけを重んじるのではなく、二つを共に立て融合することにその真髄があるのだ。

 金剛界曼荼羅は中央に坐した大日如来を、さまざまな性格を持った四つの仏が整然と取り囲んでいる。いわば密教の選抜チームだ。それとは対極的な性格を持つのが胎蔵曼荼羅で、大乗仏教の仏や菩薩が数多く並び、最外院と呼ばれる最も外側には古代インドの神々やヒンドゥー教の神々、精霊、鬼神にいたるまで「ありとあらゆる」ものが描き込まれている。今までの宗教のあらゆるものを否定せず、それらを取り込み、大いに生かしているのだ。

 この胎蔵曼荼羅の構造からは、それまでの既成仏教が取り入れるのを好まなかった民間信仰や習俗、神秘性、人間が本質的に持つ性や欲、怒りという感情までも密教が大胆に摂取し、覚りにいたるための力点の一つとして用いようとしたことがうかがえる。

 私は「不要不急」という難題に対峙するヒントをこの胎蔵曼荼羅に見出したい。自分たちにとっての「異物」や「すぐに必要はでないもの」を取り入れ、かつ対照的な性格を含む金剛界とも共生しているなど、多元的な現代を占う上において示唆が深いからである。

 なぜ空海曼荼羅が一見まさに「不要不急」なものを内部に組み入れたのか。それは曼荼羅が人間の生存本能を象徴するものであったからだと私は思う。あらゆる存在は不要不急の「雑」なるものをハイブリッドに取り入れなければ、本当の意味で「生きる」ことができない。密教はそれを行による直感と民衆の生活経験により知っていた。修行者が研ぎ澄まされた心身で世界を眺め、それをできる限り正確に描写しようとすると、世界はいろいろなものが混じり合ってできていることが見えたのだろう。

 というか、いろいろな相矛盾するものが混じり合ったところにしか世界は生成されないことを、空海は直覚できていたのだろう。