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船曳建夫 『「日本人論」再考』 講談社学術文庫

 福沢諭吉『脱亜論』からはじまり、内村鑑三『代表的日本人』、新渡戸稲造『武士道』、九鬼周造『いきの構造』、和辻哲郎『風土』、小林秀雄林房雄らの座談会『近代の超克』などへと行き、そのあとも司馬遼太郎坂の上の雲』、中根千枝『タテ社会の人間関係』、土居健郎『甘えの構造』、イザヤ・ベンダサン山本七平)『日本人とユダヤ人』、阿部謹也『世間とは何か』、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』と次々と分析対象を変えて、彼らが<日本人とは何か>ということをどのように考えてきたのかを、東大教養学部の教授(phD)らしくややペダンティックに、わかりにくい文章で論じている。

 著者によれば、ここでいう日本人論とは、<日本人がいわゆる『西洋』近代に対して外部から入ってきたものである>ことからくるアイデンティティの不安を、それを説明することでやわらげ、打ち消す機能を持つ論議のことである。近代という文明の中で日本が持つことになった歴史的特殊性を、意識的であれ半意識的であれ大きな問題と感じた書き手によって書かれ、大きな問題と感じた読み手によって読まれる論を指している。そしてこれらの日本人論は第二次大戦直後までに生まれ、明治以来連綿と描かれてきた日本人論に接してきた人々によって書かれたものである。著者は(私はよく知らないが)今論壇で活躍中の30台・40台の哲学者・文明批評家ではない。 

 しかしまもなく、20世紀最後半以降に生まれた人間が日本人口の多数を占めるようになる。彼ら若い人の最大の理念は身の回りの小さな「平等」である。少なくとも、天下国家と自分のありかたのことではない。自分たちの社会組織はもともと西洋由来のものなのではないのかとか、長い日本社会の先端にいる者らしく自分は行動できているかとか、そういう「高尚」なものではない。

 そうではなく、小さい時から『世間に迷惑を掛けない』ことこそ親から教え込まれた金科玉条である以上、人の上に立って責任を負うことは彼らにとってストレス以外の何物でもないだろう。若いひとたちのアイデンティティ不安は、今のような「何とか生きていける」時代においてはこの程度のものだろう。

 この責任放棄の姿勢はすでに彼ら独特の曖昧言語にもよく現れている。他人との関係による摩擦を最小に保ち、そのためには引きこもりになっても、彼らが自分の自由ということにこだわる場合、私たち戦後すぐに生まれた世代は「自分たちがそんな子供たちを育てたのだ」ということになる。小さな社会現象だが、40歳を過ぎても結婚せず親と同居を望む男が増えたことと、上記の責任放棄はたぶん関係がある。