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内田 樹 「女は何を欲望するか」(角川新書)

 p7
 「言語は社会的に性化されている」というのは本当か
 フェミニズムは今ではもうメディアや学術研究の場での中心的な論件ではなくなっている。大学ではまだ教科書的に「ジェンダー・スタディーズ」が教えられているが、そのステイタスは一時期の「マルクス主義経済学」に近いものがある。
 喫緊の社会問題を論じているときに、「父権制イデオロギー」や「社会的に構築されたジェンダー」が社会システムの不調の原因であるというような説明をしても、耳を傾ける人はもうほとんどいない。
 これほど短期の間に一つの社会理論が威信を失ったのも珍しいケースだろう。上野千鶴子氏は、ちょうどフェミニズムの退潮が見え始めたころ、東大教授となられたわけである。
 p29
 多くのフェミニストは「女は自分の言葉を持っていない。それゆえ、『女として語る言葉』を獲得しなければならない」と言っていた。この言葉自体は、論理的には筋が通っている。
 しかしこの理説は、出発点に大きな難問をかかえている。それは、「『女として語る言葉』を獲得する」ために始まる長く厳しい論理的な戦いにおいて、<暫定的な道具としてでもいいから>どのような言葉を用いることができるのか、という難問である。
 いま、女性たちには「男の言葉」の使用しか許されていないというのが、コフマンやフェルマンら西欧語圏のフェミニストが採用する議論の前提である。それゆえにこそ、「女の言葉」の創出が急務とされるわけである。しかし、現状がもしそうであるなら、「女の言葉」が創出されるまでの過渡期において、女性は何語を語ればよいのか。
 そのとき、もし「男の言葉」を使うことを通して「女の言葉」を創出しえたとすると、それは「男の言葉」を使っても、女性は自分の思いを語り、自分の意志を実現できるということである。そうなら、「女の言葉」は必要ではなかったということになる。
 逆に、「男の言葉」を使うかぎり、「女の言葉」は永遠に創出できないのだとすれば、戦いは始まる前に終わってしまう。
 どちらの場合も「女の言葉」の可能性は否定される。『女として語る言葉』を獲得しようとするときの根本的な難点がここにある。
 p54
 ボーヴォワールの節度
 「人は女に生まれるのではない、社会が女にするのだ」と言ったボーヴォワールの言葉は、近代において性差について語られたもっとも重要な言葉の一つである。「私たちは人間による人間の収奪も、ヒエラルヒーも、特権もない平等な社会をめざしてきました。そしていま、私たちは男性と同一の資格、同一の採用条件、同一の給与、同一の昇進機会、ヒエラルヒーの頂点に達する同一のチャンスを手に入れようとしています。・・・・・・・・」
 しかしボーヴォワールは突然ここで立ち止まる。
 権力、威信、利得、成功の機会など希少な社会的リソースをめぐって男女すべての人間が弱肉強食の生き残り戦を戦うことは、そもそもそれほど「よいこと」なのか。それは同時に「人間は社会的リソースを利己的に奪い合うべきである」という果たし状に署名していることにならないだろうか。「女性が主体的である」ということのうちに「戦いに敗れた人を奴隷にする権利」も含めることは、理にかなったことなのだろうか・・・・・・・。
 この道徳律の難問の前で、それまで快刀乱麻を断つように鮮やかだったボーヴォワールの筆は停止する。サルトルと暮らす彼女の人間的な葛藤であり、私はこのことを高く評価する。
 p113
 欧米フェミニストは、お粗末にも、日本語に<男性語><女性語>が厳存することを知らなかった
 さまざまな要素が私たちの言葉の形成に参与している。人種、性差、階級、信仰、政治的立場、国籍、職業、年収、知能程度、家庭環境、病歴、性的嗜癖・・・・・・、数え切れないファクターが私たち一人ひとりの言葉の特徴をかたちづくっている。そのうちで「性差」だけが決定的なファクターであり、後は論ずるに足りないと言い切るためには、かなりの傲慢さと鈍感さが必要だろう。
 たとえば、コフマンやフェルマンら西欧語圏のフェミニストは「女の言葉」の創出が急務だと言うが、私たち日本語話者の場合、文章を書くときの語法にきわだった仕方で性差があることは、子供でもよく分かっている常識である。
 「大きな声じゃ言えないけど、あたし、この頃お酒っておいしいなって思うの。黙っててよ、一応ヤバイんだから。」 この文章は誰でも一読して 「女子高校生が書いた日本語」 とわかるようになっている。
 「抽斎の家には食客が絶えなかった。多いときには十余人もあったそうである。たいてい書生の中で、志があり才があってみずから給せざるものを選んで、寄食を許していたのだろう。」という文章は家父長的な言語主体が書いたものでしかありえない。
 日本語における女性語と男性語のこのような使い分けが、欧米語には存在しない。西欧語圏のフェミニストがうかつにも知らなかっただけである。簡単なことである。誰でも知っている通り、英語では一人称代名詞は男であろうと女であろうと 「I」 である。これを「ぼく」と訳すか「あたし」と訳すか、苦心して推敲するのは日本の翻訳者だけである。男性と女性で形の違う終助詞などという面倒なものは、もちろん欧米の言語には存在しない。
 欧米では外形的には男も女も同じ言語を語っている。だからこそ、男も女も共有している「本来性中立的な言語が、じつは男性に支配された言語なのだ」という、ジェンダーと言語をめぐる議論は、いつも欧米から始まるのである。