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養老孟司 『講演集 手入れという思想』(新潮文庫)3/3

 日本の「世間」というものの特異さ
 p268−9
 私は死体を扱う仕事を長年やっていますので、目の前に横たわるこの人は日本の世間のどこにいた人なのだろうと時々考えてきました。日本全体という大きな世間をとりますと、まず第一に、そこに入れてもらうのは場合によって非常に難しいことがある。両親が日本人で、日本に生まれれば、まず問題なく通ります。ただし、それも赤ちゃんとして生まれてからの話です。新生児の段階で入る。では胎児はどうかというと、日本では胎児は人間ではありません。母親の一部です。外から見えませんので、これを中絶することは日本では何の問題もありません。
 ですから、産婦人科学会がヒト受精卵の取り扱いに関する倫理委員会をつくったときに、私は腹の底から笑いました。胎児ですら人間でない国が、なぜ卵の取り扱いに倫理という言葉をかぶせるのか。そういうことをやっているから、日本人は偽善的なんだよと笑ったんですが、皆さんの感覚もおそらくそうじゃないかと思います。倫理委員会の「倫理」に実感がわかないと思います。

 私は解剖で人体の展示をやっていましたが、一つだけ絶対に展示できないものがあるのです。それは先天異常児、奇形児です。これはどんな場合でも、展示にかかわる職員が嫌がるんです。こんなものは出さないほうがいいと。
 日本の重症サリドマイド児の死亡率は75%でした。それが欧米では同じ診断の子供さんは25%しか死んでいません。この差は異常です。医学技術のレベルは日本と欧米で同じだったのですから。残り50%は何らかの形の間引き、たとえば生まれた状態で自然に死ぬに任せるというか、間違いなくそういうことが行われたはずです。
 日本は非常に外形を気にする国です。武道でも茶道でも生け花でも、型とか形に強くこだわりますが、それはそのまま人間の「形」にも応用されます。したがって平成に世の中になるまで「らい予防法」があった。「らい予防法」は顔の形、手の形が変わる、こういう人は外に出るなという法律です。こういう特定の病気の患者さんを収容所に閉じ込める法律をついこの間まで持っていた国は、おそらく日本だけだろうと思います。