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多田富雄 『免疫の意味論』(青土社)2/2

 p209-10

 がん細胞は免疫系から逃走する

 がん細胞に対してT細胞による免疫反応開始の引き金を引くのは決して容易ではない。がんはもともと自己から発生したものである。だからがんに対する免疫反応は、それが簡単には起こることがないように、前提条件が二重に三重にセットされているのだ。その条件をクリアしなければ免疫反応は起こらないのである。

 「非自己」が侵入すれば、免疫系はいつでもアプリオリに反応するなどというのは幻想であったことが分かる。もともと自然は、「自己破壊」を起こさないように二重三重に制約を加えているのである。

 そのすきをついて、がんは免疫からかぎりなく逃走する。まずがん細胞では、がん抗原を認識させるに必要なHLA(組織適合遺伝子複合体)分子が消えてしまっている例がある。HLAがない細胞は、どんなに異物であっても、キラーT細胞から攻撃されない。キラーT細胞は「自己」のHLA分子に入り込んだペプチドだけを異物として認め、それを目印に攻撃するからである。

 この逃走の仕方は、実は、胎児が母親の免疫を回避しているのと同じやり方である。父親から半分の染色体をもらっている胎児は、母親にとっては半分異物である。つまり胎児は巨大な移植片なのだ。ところが10か月もの間、胎児は拒絶されずに子宮内にとどまる。その理由の一つが、母親と接している胎盤の一部でHLA分子が消えてしまうことである。HLAがなければT細胞は胎盤を異物と認識できない。

 がんには、特有ながんの目印があって、がん抗原と呼ばれている。ところがこの抗原のいくつかは、人間が胎児の頃に普通につくっていた分子であることが分かってきている。胸腺が発生し、免疫系が発達しつつある胎児期に、「自己」の内部に同居していたのだから、T細胞はそれを当然「自己」と認識するわけである。いわゆる胎児性がん抗原に対して免疫が起こらないのは、それがもともと異物ではなく「自己」だったからである。(わたしの妻の原発胃がんがこれだった。)

多田富雄 『免疫の意味論』(青土社)1/2

 p196-8 

 遺伝性風土病がサルジニア島を敵から守った

 イタリアの孤島サルジニアには、イタリア本土とはあきらかに容貌を異にした人たちが住んでいる。彼らは紀元前7世紀にフェニキア人に滅ぼされ、次いでカルタゴ、ローマ、ビザンチン、スペインなど次々に多民族の征服にゆだねられたが、サルジニア人の土着の民族性は2000年にわたって維持された。

 こうした民族の独自性を守った要因の一つに風土病がある。サルジニアにはフェニキア人が持ち込んだという悪性のマラリアがあり、カルタゴもローマもビザンチンもスペインも、武力では勝ったものの兵士はマラリアに次々と倒され、長く駐屯することはできなかった。
 ではなぜ島民の方はマラリアで全滅しなかったのだろうか。島民にだけマラリアに対する免疫ができるはずがない。島民が生き延びた理由は、実はこの土地だけの遺伝病にある。

 その遺伝病とは、酸素を運ぶ赤血球の蛋白ヘモグロビンに欠陥があり、赤血球が壊れやすくなって起こる貧血で、地中海貧血と呼ばれる。正確には、成人では発現されない胎児型のヘモグロビンを含む異常ヘモグロビンが大量に作り出され、赤血球の形も変形する。

 通常マラリアの病原体は赤血球に寄生するが、この地中海貧血の人の赤血球には侵入することができない。そのためこの貧血の患者はマラリアに強く抵抗することができる。いきおいマラリアは正常な赤血球を持っている外国兵士だけに選択的に感染し、それを倒していった。地中海貧血の患者は貧血という代償を払って、致命的な熱帯熱マラリアから救われたのだ。

 その結果、サルジニアでは地中海貧血の遺伝子を持っている人口が増加してしまった。2000年余りにわたっての自然選択の結果、地中海貧血は地方によっては20%近くの人が強い貧血に陥る。潜在的にこの遺伝子を持っている人々は、ところによっては70%に達する。遺伝子を作り直すことはできないから、この貧血には治療法がない。

 この事実は、一見悪いように見える遺伝子が、特定の環境の中では有利にはたらくことを示している。人間の中途半端な知恵で、悪いと思われる遺伝子を排除するなどということが、いかに危険であるかを示す好例である。

中根千恵 『タテ社会の人間関係』(講談社現代選書)2/2

 p77・100 持っている能力はみんな平等だと思っている

 伝統的に日本人は「働き者」とか「なまけ者」というように、個人の努力差には注目するが、「誰でもやればできるんだ」という能力平等感が非常に根強く存在している。
 社会というものは、なんらかの方法で人々が組織されなければならないわけで、平等主義の社会が発達させる組織は、個々人の能力自体とは直接関係のないことがらを採用の指標にする。すなわちそれは生年とか、入社年・学歴年数ということになる。実際、日本社会において学歴が大きく取りあげられたり、また、それへの反発が異常なまでに大きいということは、この根強い能力平等感に根ざしているといえよう。

 日本において、民主主義・社会主義がしばしば混乱を招く一つの原因は、(かつての)社会主義の国々においてさえ認められていた能力差を、日本では認めようとしない点にあるといえよう。
 日本人は、たとえ、貧乏人でも、成功しないものでも(同等の能力を持っているということを前提としているから)、そうでない者と同等に扱われる権利があると信じ込んでいる。だから、そういう悪い状態にあるものはたまたま運が悪くて、恵まれなかったのでそうであるのであって、決して自分の能力がないゆえではないと、自他ともに認めなければならないことになっている。 

 しかし、実際の社会生活では、そうした人々は損な立場に立たされている。ところが「貧乏人は麦を食え」と言ってはならない。そういうことを言うのは日本社会ではタブーである。日本には、なんとこうした口だけのエセ同情者が多いことか。とくに「進歩派」的言辞を弄する人々の大部分が、こうした種類の特権的ムード派であるところに、平等主義から派生するぬるま湯的道徳が見られる。

 

 p169・70 100パーセント人間的なつながりに安住したい

 中国人・西欧人のように複数の集団に日常的に出入りでき、友好関係を保ちうるということは、反面、どの集団にも自己の全霊は捧げないということである。ある機能を持った集団とはその機能の範囲内で親しく付き合い、その範囲外のことがらについては自分も足を踏み入れないし、集団側もそれを求めないということである。そしてその集団の参加者は全員がそういった「契約の精神」を当たり前のこととしているから、その集団は長期間にわたって存続できる。

 これに対して日本人の会社、学校の部活、村落、災害被災者といった集団は、参加者本人に集団との「人間的なつながり」を要求する。成員間の人と人との関係を何よりも優先する、あまりにも人間的な価値観を持つことを、陰に陽に求められる。こうした集団にあっては対人関係が自己を位置づける尺度となり、集団内での「道徳」を守ることが求められる。

 「みんながこういっているから」「他人がこうするから」ということによって、自己の考え・行動に方向づけが与えられ、また一方、「こうしたことはすべきではない」「そう考えるのはみんなに合わない」というような表現によって、他人の考えと行動を規制する。

 日本人の会社、学校の部活、村落、災害被災者といった集団が「社会の人々がそう考えている」と成員に言うことは、同調しなければあなたは集団の成員として認めないということである。すなわち道徳の社会的強制である。そしてこの道徳は、宗教の経典はおろか、教科書にさえ明文化されていない類いのものである。

 日本人の価値観や社会生活の根底には、よく言われるように「絶対」を設定する思考といったものが存在しないのは確かだろう。世界に影響を与える偉大な宗教家や哲学者が、堂々たる文明国で、しかも人口が一億を超えながら一人も出ていないのは、この社会構造と無関係ではなさそうである。

中根千恵 『タテ社会の人間関係』(講談社現代選書)1/2

 1967年に発刊され2017年現在129刷・170万部が読まれているという自国文明論の超ロングセラー。

 論理よりも感情が支配しているとされる日本人の社会。西洋、インド、中国等の社会に比べて、なぜ人々の間に契約精神が欠如し、その場しのぎの価値観が支配しているのか、その根本的な理由を、著者中根教授は世界中でもかなり特異な「日本社会の単一性」に見出す。
 日本列島には関東・関西、東北・西南日本、沖縄・北海道などといった「地域差」があることがよく言われるが、中根教授は、国としての政治動向、大きな自然災害などに対する地域住民の心的反応の「全国的な共通性」には、この地域差をはるかに超えるものがあるとする。
 
教授によれば、この日本列島における文化の共通性は、とくに江戸時代以降の中央集権的政治権力に基づく行政網の発達によって、いやがうえにも助長された。さらに近代における徹底した学校教育の普及が国民意識の単一化にいっそう貢献し、戦後になると、民主主義と経済発展が中間層の拡大という形を取りながら、ますます日本社会の単一化を推進させてきた。(p188)
 この単一化社会については、ついこのあいだの、地方創生をテーマに掲げた全国会議で、「地方には地方の伝統文化があるのだから、それをもっと発展させなければ」と述べられた意見に対して、地方の参加者たちから「そうだそうだ、中央はそのアイデアを出すべきだ」との賛成意見しか出なかった、というジョークがあるほどである。

 以下に書き抜くいくつかのパラグラフは、いずれもこの日本社会の長い歴史を持つ単一性、一つの地域に多様な共同体の横のつながりを認めないという特殊な社会のあり方を述べて、読者の中に、人によっては深い共感を、別の人によってはかなりのいら立ちを呼び覚ますものである。

 

 p64-5 「二君に仕えない」日本人の危機管理の怪しさ

 フィールドワーク中に体験したことだが、外国での日本人コミュニティはたいてい、アジア・西欧であるとを問わず、現地社会からひどく浮き上がっている。これは決して日本人が外国語が下手だからという単純な理由からではなく、日本人の社会集団のあり方が、他の社会のそれと、構造的に異質なものであるからと思われる。

 それは日本人の社会集団が、個人に全面的参加を求めるということである。ある人が現地の外国人たちと密接な社会関係・友人関係を保ちながら日本人コミュニティにも100パーセント認められるということは非常に難しい。

 これと対照的なのは中国人の場合である。彼らは二つ以上の(ときには相反するような)集団に属し、いずれをより重要とも決めていないことが多い。彼らが属する二つ以上の集団はそれぞれ機能の異なるものであるから、それらに同時に属することは少しも矛盾ではなく、当然だと考えている。日本人にとっては「あいつはあっちにも通じていやがるんだ」ということになって、道徳的非難の対象になりかねないのだが、こうした日本人的一方所属というのは、世界でもまことにめずらしい。イギリス人もイタリア人もみな中国人的複線所属である。彼らにしてみれば所属集団が一つしかないということは、その集団の評判が悪くなれば自分個人まで危うくなるのだから、保身術として最低であるというわけである。

丸山真男 『「文明論の概略」を読む』下(岩波新書)3/3

 第20講 主権的国民国家の形成へ

 p279-82 福沢の独立国家論・戦争論

 維新直後、国民の精神的真空状態への「識者の対応策」としてあらわれた「キリスト教立国論」を批判するなかで、福沢は「国家の存在理由」を力説しました。そこにおいて、福沢は宗教的愛敵の精神と国際間のパワーポリティクスとは相いれないことを述べた個所で、「戦争で人を殺すことは宗教の旨に対しては汚らわしいことであるが、今の文明ではやむをえないことであって、戦争は独立国の権義を伸ばすための手段である」と断言しています。それまで福沢は幕末以来、世人の「気風の奥底」にある攘夷論を歯牙にもかけないことを公言してきましたから、読者の方々はこういう戦争容認論はそれまでの攘夷ナショナリズム批判とは矛盾するのではないかと、不審を抱かれるかもしれません。

 本書『文明論之概略を読む』は福沢の転向論を扱うものではありません。ただ『概略』に即しても、「一般論」として国際戦争の歴史的な位置づけを簡単に述べることで、上の疑問に間接的ながらお答えすることができます。
 なにより、ある種の戦争が国際法上で違法とされるようになったのは、きわめて最近のことだということです。第一次大戦前には平時国際法戦時国際法の、二つの国際法がありました。主権国家国際紛争の解決手段として、戦争と平和を自由に選びうることが近代国際法の常識だったからこそ、「戦時国際法」という名称が普通に通用していたのです。
 第一次大戦後のヴェルサイユ条約に含まれた国際連盟規約と、それに次いだ不戦条約(1928年)によって、日本を含む調印国は、国際紛争解決のために戦争に訴えないこと、および国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、「人民の名において」宣言しました。こうして、侵略戦争に対する自衛の戦争と、侵略国家に対する集団安全保障にもとづく軍事的制裁を除いて、戦争ははじめて、国家による犯罪行為とされるようになったのです。その精神は第二次大戦後の国際連合によってさらに強化されました。

 第二次大戦後の「戦争犯罪人」という新しい法概念、とくに、一国の最高戦争指導者を国際的戦争犯罪人として裁く観念の登場は、まさに戦争観のこうした画期的な変化を前提にしてはじめて理解できます。もちろん、これはたんに戦争に対する抽象的道義感が高まったのではなくて、テクノロジーの地球的発達による主権国家の相互依存性が著しく増大していることが、最大の理由です。
 したがって、戦争がつねに核の危険を内包するにいたった今日のイメージを、福沢の生きていた19世紀に投影することは著しく非歴史的なのです。戦争は独立国の権義を伸ばす手段だとする福沢の断言は当時の世界常識を述べたものであり、福沢が戦争と人間の道義性を結び付けたりしないで、「今の文明では」やむをえないことであるという限定を付けたところにこそ注目すべきであると思います。

丸山真男 『「文明論の概略」を読む』下(岩波新書)2/3

 第17講 諸領域における権力偏重

 p121-6 日本に宗教の権威なし

 福沢は古代からの神道について、<元来・・・・神仏両道なりと云ふ者あれども、神道はいまだ宗旨の体をなさず。・・・・往古にその説あるも、数百年の間、既に仏法の中に籠絡せられて本色を顕わすを得ず>と、本来の宗教とは認めず、幕末からの平田神道についても、維新政府の成立の際にいわゆる「草莽の国学」となって“瞬間的に”祭政一致の建前になっただけであるとして、その役割をてんで問題にしていません。
 そこで福沢にとっては日本で宗教らしい宗教といえば仏教だけになります。その仏教のことを論じるにしても、歴史家というよりも啓蒙的文明論者であった福沢の目には、仏教の教義そのものよりは日本の歴史の中で朝廷や武家政権と仏教がどういう位置関係にあったのかが最も気になるものでした。
 ですから福沢は、多くを負っているギゾーにならって、帝政ローマ末期のキリスト教の役割を<もしこの時代にキリスト教なかりせば、ヨーロッパはことごとく禽獣の世界なるべし>と、聖職者集団の胆略に率直な感嘆をあらわすのですが、その一方でキリスト教教義そのものは「妄誕」であるとしりぞけています。キリスト教聖職者集団は末期ローマ帝国と武力で戦って勝利しただけのことである、と。

 しかし、福沢はキリスト教の教義には動かされなかったものの、ギゾーが説く「肉体を制する」俗権と「精神を制する」教権の分離という西欧文明の思考形態には大きく動かされました。そしてそのうえで、ギゾー『ヨーロッパ文明史』で、「1077年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリー7世に泣いて哀れみを乞うた次第」を読んで、西欧文明における宗教権力の大きさを実感します。『概略』には<恰も天上天下の独尊なるが如し」と釈迦についての俗言を添えるなど、「俗権を支配する教権」に対する福沢の感じ入り方はただ事ではなかったようです。(p34付近)
 これを一方、日本にふりかえると、皇室・政府が名僧知識に爵位を授けるということが行われながら、社会はこれを何もおかしいこととは思っていない。福沢は宗教そのものにはさして興味がないのですが、それにしてもこれほど宗教が俗権に対して独立性がないことは国民そのものの自主独立性を疑うに足る証拠に見えたといえます。
 当時の知識人でも、こういう俗権と教権の関係を問題にした人は、福沢以外にはあの森有礼だけです。森は、『日本における宗教の自由』という英文の意見書で、日本には良心の自由という観念がなかったと述べています。
 わたしの知る限りでは、鎌倉仏教だけが、初期の浄土真宗はとくにそうですが、日本の仏教史のなかでは例外的に、政治権力に対する自立性の意識が強かった。道元は紫衣を皇室からもらったのですがそれを一生身につけなかった。固辞したあげくに、受けるだけは受けたのですが、そのことについて自嘲的な詩を書いています。

 p151-2 武人に独一個の気象なし

 武士のエートスイデオロギー批判をする中で、福沢は<日本の武人に独一個人の気象なし>と述べ、武士の名誉心の動機は(家とか君とかいう)「一個人の外部」に由来するものであるとしています。そして「独一個人の気象」に「インディビデュアリティ」とわざわざ言語を注記しています。

 少し脱線しますが、ここでこの注記に関したことをすこし採りあげます。このインディビデュアリティという言葉は、おそらくJ・S・ミル『自由論』からとっています。ミルはその中で、「いまドイツでは<個性>というものが国家権力に対抗するものとして高い価値を与えられている」と書き、著者のフォン・フンボルトをきわめて高く評価しました。
 なぜミルが個性を強調したかといえば、デモクラシーの発達とともに、凡庸の支配が出てくる傾向が避けられないからです。多数の横暴と同じことで、ミルはそれを憂えた。社会の平等化とともに人間の平均化現象がおこる。これはトクヴィルの名著『アメリカン・デモクラシー』における大きなテーマであり、(「イギリスの支配からの自由と、同胞間の平等」を国の出発点としたという成立事情を持つ)アメリカではどうしても避けられない現象です。
 個性と一口に言いますが、これは19世紀に入ってロマン主義の台頭とともに前面に出てくる主張です。丸山真男なら丸山真男という人間が二人とはこの世にいない、というのが「個性」です。
 ただJ・S・ミルが『自由論』でいう個性は、このロマン的自我の個性というよりは、世論の圧力や多数意見に盲従しない個人の思想・言論の自由が主旋律であり、福沢のいうインディビデュアリティあるいは独一個人の気象というのも、そんな厄介な詮索の上で使っているのではなく、今日の言葉でいえば、個人の自立性というほどの意味です。

 

丸山真男 『「文明論の概略」を読む』下(岩波新書)1/3

 第16講 「日本には政府ありて国民なし」

 p75-80

<日本にて権力の偏重なるは、あまねく社会の中に浸潤して至らざるところなし。・・・今の学者あるいは政府の専制を怒り、あるいは人民の跋扈をとがむる者多しと雖も、細かに吟味すればこの偏重は社会の至大なるものより至小なるものに及び、公私に拘わらず、その権力、偏重ならざるはなし。>
 あらゆる組織体に段階があるという事実(=有様)そのものは文明の段階を問わない普遍的現象です。ところが上級者と下級者がたんに職務分担上の区別でなく、上級者の方が価値的に当然「偉い」となると、それはすなわち日本における権力の偏重になります。事実上の「有様」の違いだけでなく、それが「価値」の上下の差になっていることを福沢は日本文明の病理であるとして剔抉しているわけで、この「有様」と「価値」との区別は、『学問のすゝめ』でも人間の平等と国家の平等とを基礎づける際のかなめをなしています。

 そして、実際に一切の社会関係に権力の偏重があることが、男女関係からはじまって親子兄弟の家族内の権力の偏重、次に家族外の師弟主従、貧富貴賤、新参と古参、本家と分家といった「世間」での権力の偏重、それから次には大藩小藩、本山末寺、神社の本社末社といったすべての単位における権力の偏重があることを挙げていきます。

 ここには権力の偏重が実体概念ではなく、関係概念なのだということがよく示されています。特定の一個人が権力を「体現」しているのではなく、上と下との「関係」においてそうであるのだ、だから上に対してはペコペコし、下に対しては威張っているという「関係」がずっと下まで鎖のようにつながっている。わたしは一兵卒として広島の参謀部に勤務しましたが、普段はお偉い佐官級の士官が参謀将校の前でオドオドしているのを見るたびに、この福沢の卓抜な観察を思い出したものです。

 p110-1

 「くに」という言葉の多義性は近代日本のナショナリズムが振るった魔術的な力の秘密の源泉でもあります。「くに」はいくつにも相似形に重なった構造をしています。いちばん外に「大日本国」という国がある。その中に出羽の国とか播磨の国とかいう場合の「クニ」がたくさんある。さらに今日でも「クニに帰る」という場合のように、郷土という意味の「クニ」が最小の単位をなしています。これらが相似形をなして重なっているところに、自分に一番近いクニに対する自然の愛着心をいちばん外側の大日本国に対しても比較的たやすく動員できる理由があります。
 むろんたとえば英語のカントリーという言葉にも、こういう多層性はあります。しかし日本語ではさらに驚くべきことに政府も「クニ」なのです。「クニ」の支出によって、という場合の「クニ」は政府をさします。カントリーが同時にガヴァメントをも指すわけです。英語のカントリーにはガヴァメントの意味はもちろんありません。日本の「くに」という言葉が持っている魔術というのは、このことです。 

 けれども同時にこの魔力は「ネーション」の意識のおどろくべき低さと隣り合わせになっています。「くに」への依存性、所属性の意識は非常に強いのに、その反面、この国は俺が担っているのだ、おれの動きで日本国の動向も決まるのだ、という意識は非常に乏しい。ですから、第二次大戦の末期に連合国が日本を見損なったのも無理はありません。
 あれほど愛国心の旺盛な日本人だから、本土上陸した連合国軍に対してさぞ猛烈なレジスタンスを続けるだろうと予想していた。連合国側の初期の占領政策はこれに対処するようにできていた。ところがこの想定が全く外れた。日本人の愛国心は強いというべきか弱いというべきか、という問いは今日でも生きています。