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E.M.フォースター 「眺めのいい部屋」(みすず書房)

 p53
 家柄と立ち居振る舞いと見破られぬ偽善にしか自分の存在理由を見出せないイギリス・ブルジョア婦人。その描写の仕方の好例。「ミス・アランはいつもこのように自分の判断に対して、慈悲深かった。一貫性を欠いた彼女の話には或るかすかなペーソスが漂い、予期せぬ美を添えていたが、それは木々が葉を落としはじめた秋の森から、春を思い出させる香りが立ち上るのに似ていた。自分があまりにも頻繁に判断の枠を緩めすぎるのことに、彼女は気づいており、その寛容さをあわてて弁明するのだった。」漱石の『虞美人草』の藤尾の母親とは、顔立ちが違うだけである。
 p58
 ミス・アランに劣らず、自分ならぬ或るものに執着し、それに気づかないブルジョア婦人・ルーシーの台詞。「大きなことをすることがたいがい淑女らしくないのは、女性が男性より劣っているからではありません。男性とは違うからなのです。女性のつとめは自分で何かを成し遂げるよりも、人に成し遂げさせること。間接的な手段で、心づかいや純潔さによって、女性は多く働きをするものです。でも自ら事をかまえれば、非難され、軽蔑され、最後は無視されます。このことは詩にも書かれていますよ。」
 しかし悲しいかな、生き物は堕落する。十分に若いルーシーの胸のうちにも奇妙な欲望が芽生えてくる。彼女もまた荒々しい風や巨大なパノラマや海の果てしない広がりに魅せられる。
  p269
 そして (同じように若いジョージが言ったことをそのまま復唱して) 保護者然とした態度を崩さない男セシルに言ってしまう。「それがあなたの古い考え方―ヨーロッパを遅れさせた考え方なんです。女はいつも男のことしか考えていないという。女性が婚約を解消すると、だれもが『さては誰か男がいるな』と言うんです。本当にぞっとするわ!女性が自由のために婚約を解消できないなんて。」ルーシーは可哀想に、自分のうちの荒々しい風に気づいていない。
 p130
 イギリス・ブルジョア婦人の知人評価の典型。あのかたセシルは善良で、賢くて、お金持ちで、立派な家柄の人です。マナーも上品だし。あの方のお母さまもよく知っているわ。教養を高めるためによく講演会にお出かけになるかたです。でもいつもベッドの下は埃だらけ、電気の光で見るとそこいらじゅうメイドの汚い指のあとだらけ。あの家の掃除の仕方はひどい。」
 p133・149
 セシルは、中世がより漠然と禁欲主義として讃え、近代世界が自意識と呼んだところの悪魔の手につかまれていた。他人の帽子をセシルが無頓着にかぶるようすはおよそ想像できない。婚約を完全に私的な事柄だと断言し、祝福する「ニタニタ笑いの老婆」たちを嫌悪する。セシルは一冬を母親とローマで過ごしただけなのに、自分のことをイタリア化したイギリス人だというおかしさ。
 ルーシーもセシルもフレディもミス・バートレットも、登場人物はとてもズレている。この小説は、まずコメディである。フォースターはいつもこんな小説を書く。人間のズレを際立たせるために異なる文明を衝突させる。漱石は日本における近代(らしきもの)の人間を描くとき、フォースターの「ズレた人間」を大いに勉強したのではないか。

 p271
 ルーシーが自分を突き動かした二人に対して、「どちらも愛していない」、「女は自由のために婚約を解消できる」と言ったとき、彼女は自分を理解しようという試みを放棄して、盲の者たちの大軍に―(自分を大切にするという)便利な決まり文句に頼って行進を続ける大軍に―加わった。
 この軍隊には、人あたりよく信仰の厚い人々があまたいる。だが彼らは問題とすべき唯一の敵―内なる敵に敗北している。情熱と真実にたいして罪を犯した彼らの、美徳を求めるあがきは虚しいだろう。歳月を経るうちに、彼らはその罰を受ける。
 人当たりのよさや信仰には割れ目が見え、彼らのウィットは冷笑に、自己放棄は偽善となり、彼らはどこに行っても不快を生むのである。彼らが犯したエロスとパラスへの罪に対して、アテナイの守り神たちは、天の意志ではなく、周囲の自然の流れに従って、人間たちが受けるべき残酷な復讐をとげるだろう。