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池澤夏樹 『花を運ぶ妹』(文春文庫)2/2

 それにしてもドイツ女インゲボルグのヘロインへの誘いは迫力がある。 
 以下、少し長いが抜き書きする。

 p243-6

 インゲボルグ「哲郎のバリの花の絵はいいわ。でもそれはすぐに萎れる花を描いているからいいのではない。その花の後ろに、一輪の花を超えた永遠の時間が見えるときだけあなたの花の絵は美しいの。絵描きは一瞬を賛美するふりをしながら、実は永遠をたたえなければならない。生命は短いけれども、それはもっともっと長い、ゆっくりした岩の時間によって背後から支えられているから美しく見えるだけだと思うの」

 哲郎「絵を描くときにはそんなことは考えない」

 インゲボルグ「頭は考えないけれど、ずっと深いところで心は考えている」

 哲郎「どうしてそんなことがわかる?」

 インゲボルグ「あなたの絵を見れば」

 哲郎は、それは理屈のための理屈でしかないと思いながら、反論ができない。

 インゲボルグ「映画がどうしても世俗性から逃れられないのは、目の前の時間に捕らわれているからよ。映画は時間を映す道具だから、だから駄目なの」

 哲郎「ではいつもそれを、ゆっくりとしか変化しない岩や星のことを意識して描けば、いい絵になるってわけ?」

 インゲボルグ「そんなに簡単なものでないことはよくわかっているでしょう?岩になる。岩であることの幸福を知っている。それを知っていればいいのよ。
 私は自分が西洋人でありながら、西洋人はおろかだと思っている。変化するものの背後に変わらないものがあってすべてを支えていることを忘れている。クリスチャンたちは大急ぎで最後の審判まで走ってしまおうと考えている。それに対して、私が勉強した限り、東洋の理想は岩になることよ。生き急ぐ生命の原理を超越して、ゆっくりした時間感覚を身につけ、不動の自分になって万物を観照する」

 哲郎「しかしね、ぼくに言わせれば、絵というのは技術だよ。うまい絵描きと下手な絵描きがいるだけだ。あなたの言うようなそんな難しい哲学は必要ない」

 インゲボルグ「いいえ、そう思っている限りあなたはある一線を超えることができない。超絶的にうまくて超絶的につまらない画家になる」

 そう聞いたとたん、哲郎にはまさにその表現にふさわしい画家が何人か浮かんだ。ああはなりたくない。

 インゲボルグ「絵っていうのはいちばん宇宙に近い芸術なの。アンドロメダ星雲の先まで行っても絵は描けるの。空気がなくて唄が歌えないところでも、人がいなくて言葉がつかえないところでも、絵は描ける。私は年に一度ここバリにくる。そして岩の快楽、死の快楽を味わって帰る」

 「え、どういう意味?」哲郎はよくわからないでそう訊ね返した。

 インゲボルグ「生物として生きるというのはとても細かい時間単位で外界と反応をやり取りすることでしょ?でも、もっとゆっくりと、何もしないまま横たわっているという快楽があるの。応答なし、完全に閉鎖された自己。指一本動かさず、見るだけの存在になる」

 哲郎「どうやって?」

 インゲボルグ「死を先取りして体験する」

 哲郎「だからどうやって?」

 インゲボルグ「それは本当にいい気持ち。岩になって、十年百年の尺度を捨ててすべてを肯定する。岩の生は長い長い時間に備えて希釈された快楽だけでできている。岩になれば苦痛なんて感じないのよ。私は年に一度ここに来て、岩の快楽を得て、数時間を数百年として過ごして、それで得た力でそれからの一年をまたなんとか暮らす」

 哲郎のなかに警戒が生まれる。この人は何のことをいっているのだ。何をしろというのだ。