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木村尚三郎 『西欧文明の原像』(講談社学術文庫)2/3

 ウマイヤ朝ムスリムが紹介するまで、西ヨーロッパはアリストテレスを知らなかった

 p77-9、86-9
 西ヨーロッパがプラトンアリストテレスを知ったのは12世紀のことであり、それもスペイン・ウマイヤ朝イスラム教徒を介してのことだった。ウマイヤ朝の首都スペインのコルドバは当時ヨーロッパ一の大都会であり、道路は舗装され、夜は街灯がともっていたという。パリが初めて舗装されたのは1184年のことで、それもルーヴル宮の前だけだった。

 ギリシア・ローマの古典文化がイスラム文化を通して西ヨーロッパに紹介されたということは、西ヨーロッパにとり、地中海の古典文化はイスラム文化と同じく異国の先進文化だったことを物語っている。そしてまた異国の先進文化であったがゆえに、西ヨーロッパは過去にコンプレックスをいだいた。それはちょうど明治以降の日本において、つねに欧米を基準とし、欧米先進文化を引合いに出すことによって、自らの学問・文化の権威づけが行われてきたのとよく似ている。17世紀フランス文人の間で戦われた「古代人・近代人優劣論争」は、この意味でまことに興味深い。

 西ヨーロッパが古典古代へのコンプレックスから完全に解放されたのは、じつに第二次大戦後のことだった。それは、西ヨーロッパ諸国の経済復興と発展、欧州共同体の発足と展開、そこでの相互協力による高度の産業化と一体の過程が、歴史的・文化的個体としての自分たち<西ヨーロッパ>を、ギリシア・スペインなど地中海世界との対比において、初めて自覚させたものと言えよう。

 今日、西ヨーロッパ諸国の教育機関において、ラテン語学習が義務的科目から外され、また西ヨーロッパ世界の成立を11、12世紀に求めるようになったのは、高度の産業化によって西ヨーロッパがはじめて自己を主張する自信、地中海世界との異質性に対する明確な意識を持つようになったからであった。そして「中世」ということば自体が、今日すでに特定の時代概念ではなくなりつつあり、たんなる便宜上の日常語として使われるにすぎなくなった。

 フランスの近代国民国家はイギリスへの恐怖心が生んだものだった

 p109-10
 19世紀の国民国家はそれ自体が虚構であり、擬制であった。地方政治や官僚制度など国家組織の基本が未整備、不整合、不安定であり、革命や暴動といった動乱の可能性が常に孕まれていた。支配する側にもされる側にも、自己を維持しとおすために英雄とか、強烈な人格とかを待望せざるをえない状況が日常的に存在していた。

 なぜ近代ヨーロッパの支配者とブルジョアジーは、無理をしてでも、それ自体が擬制である政治体を作り出さねばならなかったのか。その最大の原因は近代イギリスの存在そのものであり、大陸側の市民はつねにイギリスに存在に心理的圧迫を受けていた。
 イギリスは機械制生産をなしとげる産業革命のはるか以前から、ナショナルな規模で商品生産を展開できた唯一の国家である。14世紀後半以降、国際的花形商品として大規模に生産されるにいたった良質の毛織物がイギリス最大の武器であった。
 このイギリスとドーバー海峡を挟んで相対するフランス・ブルジョアジーは、14-15世紀の100年戦争以来異常な勢いで発展するイギリスに緊張感を抱き始めていたが、くだって18世紀にイギリスが産業革命を成功させるにおよんで、緊張感と恐怖は極点に達した。
 その結果、合理的思考の持つ現実変換能力がいやがうえにも高く評価されて、啓蒙思潮が生み出され、絶対王政の打倒と国民国家の樹立が叫ばれたのだが、それはひとえに、この「非常識な」イギリスに対する、フランス・ブルジョアジーの自己防衛反応の所産であった。 

 全国的な飢饉が自作農を一斉蜂起させ、フランス革命を全国に波及させた

 p185-6
 ところで、フランス革命はなぜ起こったのか。
 ルイ16世の無能・無気力とマリー・アントワネットの奢侈にどれほど国民が憤慨し、国民国家樹立の必要性や人権思想の理念が説かれ、それによってパリだけは動いたとしても、コミュニケーション手段の劣悪な当時では、とても全国一斉の人民蜂起というわけにはいかなかったろう。市民社会理念や人権思想の確立は、フランス革命の評価ではありえても、必ずしも原因たりえない。

 じつは革命のはじまる前年、フランスはたいへんな凶作であった。そして翌年の春からは穀物が深刻に不足し、価格が高騰し、飢饉がおとずれた。全国の農村は、「強盗団」が穀物を奪いに来るのではないかとの思いからパニックに陥った。
 こうしてすべての農村がいっせいに武装をはじめ、穀物を取られる恐怖に駆られて領主への年貢支払いを拒否しただけでなく、領主館を襲って年貢のもとである証書を焼き捨てた。凶作が全国の農民に等しく自衛・土地防衛の行動を起こさせ、結果として領主権を攻撃させたことこそ、フランス革命を準備し、成功に導いた最大の原因である。

木村尚三郎 『西欧文明の原像』(講談社学術文庫)1/3

いまのアメリカは、「西欧の精神」の露骨な見本帳だといえる

 p46-8

 欧米人にとって戦争は、長いあいだほとんど唯一の、そして確実なコミュニケーションの手段そのものだった。今日なお、その意味は失われていない。
 欧米の文化はまさに戦士の文化であり、一人前に戦い得るものだけが人間としての資格と権利を認められ、主体性を発現し得る文化であった。そして、敗残者は公園のベンチに終日じっと腰かけていることを余儀なくされる。アメリカの大都市の片隅に見うけられる人のように。

 第二次大戦後アメリカ文明の影響を全身に浴び続けた日本では、企業戦士という言葉がマスメディアで使われない日はなかった。一人前に戦いえた上級企業人たちの栄光と、力をなくして老残兵となった人たちの余生の対比も、アメリカの風景を縮小コピーに取ったように似ている。

 現代の啓蒙思潮による人権思想の展開は、このような冷酷非情な自己確認の態度がいささかなりとも変化したことを意味するものではない。
 人権思想は、商品経済の進展とともに人々の社会的な相互依存度が増大した結果、傷つけ合い殺し合うことによる自己確認方法が、少なくとも市民社会の内部では互いの不利益になり、暴力・腕力によるコミュニケーションよりは「対話」によるコミュニケーションの方が利益に富むことを社会が気づいたからにすぎない。
 すなわち、欧米国家は対等な相互依存関係を必要としない相手に対しては、依然として力によるコミュニケーションが続ける。もっとも先進的に民主主義を実現してゆく国家が、国際社会では植民地支配を行い、非民主主義的に行動したとしても、それは自己矛盾でもなんでもない。それは自分の主張を実現する表面と裏面の行動なのであって、それをまやかしあるいは見せかけとみるのは全くのあやまり、あるいは日本人の偏見である。

 ここでの「対話」は、だから「気心」の知れない冷たい対話であり、日本人同士の「こころ」が触れ合う暖かい話し合いとは根本的に異なっている。日本で「話し合いに応じる」といえば、それは対立していたものと仲良くする意志のあることを暗黙の前提としている。従ってそのとき現実に双方から交わされる言葉は、直接・間接に「気心」を伝え合う媒体でしかなく、極端な場合にはどうでもいい飾りにすぎない。その「話し合い」は男女、夫婦、親子の会話のように、共感と情感に媒介された睦言、おしゃべりである。鋭い論理、一言ごとに自他の利益を測定する精神態度は存在しない。

 p49-50
 アメリカ人は、国民国家に生きる人々の感覚からすれば、一人ひとりが母国語を持たない孤独な国際人である。彼らのあいだには風土も人情も捨象した論理的な人間関係しか存在せず、またそれだからこそ19世紀的な国民国家を克服して大陸型の国家をつくりあげ、維持できているのだといえる。
 一人ひとりは率直・快活で善良な、要するに「人の好いアメリカ人」のイメージと、ケネディ大統領、ケネディ上院議員、キング博士を暗殺した暴力的なアメリカ人のイメージ、それにベトナム戦争の暴挙を長年続けた傲慢なイメージは、どこでどうつながるのだろうか。
 おそらくこれらのどれもが、アメリカ人の一面を正しく表現しているのだ。すなわち相互依存の必要がない(と当時は思っていた)東南アジアの国に対しては、全力を挙げて先制攻撃をしかけ、叩き潰そうとする。反対に相互依存の必要ありと判断した中国・ソ連のような国に対しては、これまた全力を挙げて、攻撃意図のないことを積極的に表明し、対話による平和共存の道を見出そうとする。それは生きるために冷たい言葉、自分でもよそよそしいと感じる言葉しか持ちえない孤独な人々の、いわば自営本能にもとづくともいうべき精神態度であり、自分以外のすべての人間を信じることのできない緊張感から、それは発している。

 ひとことで言ってしまえば、アメリカ人のフランクな人の好さは生きるための術である。それはもちろんタテマエなのだが、このタテマエはまさに真剣・切実なもので、それなりに社会的真実性を持っており、そこでは個人による壮絶な戦いが日常的に展開されている。

 アメリカは、天国と地獄の存在をいまだに信じている人の割合が欧米キリスト教国の中でいちばん高い。キリスト教がしだいに生命を失って習俗化し、冠婚葬祭の儀礼と化しつつあるヨーロッパ諸国とは大きなちがいがある。アメリカ人は依然として、個人一人ひとりで神と向き合わねばならなかったルター、カルヴァン以来の厳しいプロテスタント伝統の中にあるわけで、逆方面からいえばアメリカ人はそれだけ、人間そのものに対する根底的な不信感のうちに生きることを余儀なくされていることになるだろう。

シュテファン・ツヴァイク 『マリー・アントワネット』(岩波文庫)

 ナチスドイツによって永遠に葬り去られた古きよきヨーロッパ。社会上層の教養主義がまだ本来の意味で生きていた時代への愛惜を、ツヴァイクは脱出先の南米のホテルで何の資料も持たずに、ただ驚くべき記憶力だけを頼りに、『昨日の時代』として一気に書き上げた。そしてそのあと、妻といっしょに毒を飲んで死んだ。もう一年生きれば、ヒトラーが敗北するのを自分の目で確かめられたのに。しかし彼にとっては、ヒトラーがいなくなろうとどうなろうと、破壊されつくした「よきヨーロッパ」が復活することはありえないのだから、自分と周囲の教養人たちの時代はもう終わったのだと、自死の決心が揺らぐことはなかっただろう。

 自分の才智にくらべて名前だけが何百倍も膨れ上がって伝えられているマリー・アントワネットについて書くときも、ツヴァイクの抑えられた筆致は少しも変わらない。ドイツ伝記文学の最高峰とされるこの作品は、著者があとがきで言うように、「巧者なジャーナリストたちが、マリー・アントワネットの取り巻き連の名前をふんだんに使って厚い捏粉をこねあげ、甘ったるい砂糖をふりかけ、感傷的な思いつきのうちに長いことこね回しているうちに、一冊の本が出来上がる」具合の作り方が、一切なされていない。
 上下2冊のいたるところにマリー・アントワネットは登場するが、彼女の人となりはいつも変わらない。本書カバーが言う「歴史の偶然によってたまたま大きな役割をふりあてられた、どこといって非凡なところなどない美しい女」が「虚名のみ高く、毀誉褒貶半ばする」のは、ただ彼女がデリケートな事柄にはトンと鈍感だったからであり、毀誉も褒貶も自分の気持ちよさの前にはあまり意味を感じなかったからである。

 上巻p145-6

 マリー・アントワネットが犯した致命的誤りは、女王として勝利を博する代わりに、彼女が一人の女として勝とうと欲したことである。彼女が女としてあげるささやかな凱歌は、世界史上の偉大な、宏遠な勝利以上に、彼女には重要視される。彼女の遊惰な心情は、王妃という理念になんの精神的内実を与えることを知らず、ただこれに完成した形を与えることしかできなかったから、偉大な課題も彼女の手にかかっては、一時の遊びに化し、高い役目も俳優の役目に変ずる。
 マリー・アントワネットにとっての王妃たることの唯一の意味は、宮廷中でもっとも優雅な女、もっとも艶な女、もっとも美しくよそおった女、もっとも甘やかされた女、とりわけもっとも満足して快活な女として称賛されること、自分たちが人間だと思っている、あの上品すぎるくらい躾けたたしなみのある社交界の連中の「礼儀作法の審判者」であり、伊達者たちの音頭とりであることであった。その軽率無思慮な20年の歳月を通じて、彼女のこの「信念」は変わることがなかった。

  この無意味な過失を具体的に理解するには、こころみに一枚のフランス地図を手にして、マリー・アントワネットが王妃として20年間を過ごしたちっぽけな生活範囲を、そこに描いてみるのが捷径である。その結果たるや人をして唖然たらしむるものがある。というのは、その範囲は非常に狭く、ヴェルサイユトリアノン、マルリ、フォンテーヌブロー、サン・クルー、ランブイエ、このわずかな道のりしか離れていない六つの城のあいだを、マリー・アントワネットは毎日毎日くるくるくるくる動き回っているだけだったのだ。
 あらゆる悪魔の中でいちばん愚かな悪魔、快楽の悪魔によって彼女が閉じ込められた五角の星型をした生活範囲を踏み越えようという要求は、彼女がただの一度も感じたことがなかったのである。

 自分の国を知り、自分が王妃として君臨している多くの州を親しく見、フランスの海岸、多くの山々、城郭、都市、寺院を見ようという望みを、このフランスの支配者はただの一回も起こさなかった。自分の民の一人でも訪れ、あるいは国民の上に思いを致すためだけにさえ、彼女はただの一時間のときをその無為の生活から割いたことはなく、ただの一度も市民の家の門をくぐったことはない。

 パリのオペラ座の周囲に一個の巨大な街が展開していて、貧困と不満に満ちていること、トリアノン宮の池のかなた、有名な見世物の村落の背後に本当の百姓の家々が荒れ果て、納屋が空っぽになっていること、彼女の金ぴかの庭園の柵の向こうに何千万かの国民が労働し、飢えていることを、マリー・アントワネットは決して知らなかった。

 ただ一度問いさえすればマリー・アントワネットにも世界の実相がほの見えただろう。しかし彼女は問おうとはしなかった。時代に一瞥を投じさえすれば、彼女にも理解できただろうに、理解しようとしなかった。一種の鬼火に導かれつつ彼女はたえず一つの円のなかをめぐり、宮廷的操り人形をもてあそび、人為的技巧文化のうちにあって、彼女は決定的で二度と取り返せない年々を空費したのである。

木村尚三郎 『歴史の発見』(中公新書)

 歴史を学ぶとき、今までのような古代・中世・近世・近代・現代といった時代区分ははたして有効なのか。現代の自分たちの世界は、はたしてそのような順序をたどって変化してきたのか。
 著名な西ヨーロッパ文明史家である著者は、その時代の人々が自分の生きる「世界」のなかにいくつの「場」を持っていたかが、歴史的な時代区分を考える上でポイントになるという。

 p49あたり
 いま私たち現代人は学校、地域、職場、政治団体、宗教団体、親睦団体、スポーツ仲間その他いくつもの組織に身を置いており、それらに加わっていることで自分の知見の範囲を、大げさに言えば、全世界に拡大している。私たちはさまざまの組織や「場」に所属し、その「場」に特有の論理と人間関係の中で生きている。
 これにくらべて19世紀までの人間には現代人よりもはるかに狭い行動と知見の範囲しかなかった。人口の圧倒的多数を占めた農民にとっては、村がほとんどただ一つの身を置くべき組織であり、彼らの「世界」だった。町の職人や番頭、手代にしても、親方の家や中小規模の企業が彼らの主たる世界であった。彼らの場合、かかわりあう組織や「場」の数は少なく、かつ小さかった。

p52-3
 この、人が所属する「場」とそこで結ばれる人間関係という観点から見ると、「有史時代」はどのように分類されるか。地縁的組織集団を貫く経済原理が農業・自然経済に立脚するか、工業・商品経済に立脚するかによって分類される次の3つの時代区分がもっとも適切なのではなかろうか。

 第一の時代(古い時代)
 11世から13世紀までの、地縁的農業組織集団時代である。ふつう封建社会の時代といわれ、農村共同体の成立、領主・封建貴族の出現が目じるしとなる。

 第二の時代(中間の時代)
 14・15世紀から19世紀までがここに含まれ、第三の時代への移行期である。互いに異質な農業組織集団の原理と工業組織集団の原理が相克し合い、どちらも優越的・支配的になれなかった時代である。封建社会の崩壊期、絶対主義時代、市民革命と19世紀の近代市民社会などはみなここに含まれる。都市と農村、中央と地方、行政と司法、そして公と私とがことにヨーロッパ大陸では鋭く対立し合い、「私の論理」が特徴的に貫徹した時代である。

 第三の時代(新しい時代)
 20世紀、とくに1930年以降の地縁的工業集団の時代である。国家の大規模な経済への介入と再編成、それによる国民経済の成立、マルクシズムの立場からは国家独占資本主義の成立とされるのもが基本的な指標になる。ファシズム・ナチズムもここに含まれる。

 10世紀までの時代は、ヨーロッパ史では、われわれが考察する時代とは異質であり、無縁であるといってもいい。この時代は地縁的組織集団の本質を抽象的・間接的には語ってくれるが、われわれが考える組織集団の論理については何一つ文献等がない。この意味で、10世紀までの時代はいわばヨーロッパの「先史時代」である。

村上春樹 『国境の南、太陽の西』(講談社文庫)

 男性には直感的に見とおすことのできない「女性性」というものの――そんなものがあるとすればだが――奥深さ。村上春樹が初期のころから書いてきて、特に若い年代の読者から支持を受けてきたテーマが、この本でも甘く、せつない長編抒情詩になって繰り返されている。

 小説が始まって10ページほどに島本さんという、主人公「僕」の後年の半生を大きく揺り動かすことになる同級生の少女が出てくる。この島本さんと「僕」が出会ったとき、「僕」のなかで何が生まれたのかについて書かれたロマンティックな文章はとても美しい。

 p22-3

 彼女は間違いなく早熟な少女であり、間違いなく僕に対して異性としての好意を抱いていた。僕も彼女に対して異性としての好意を抱いていた。でも僕はそれをいったいどう扱えばいいのかわからなかった。島本さんだってたぶんわからなかっただろう。彼女は一度だけ僕の手を握ったことがある。どこかに案内するときに「早くいらっしゃいよ」というふうに僕の手を取ったのだ。

 そのときの彼女の手の感触を僕は今でもはっきりと覚えている。それは僕が知っているほかのいかなるものの感触とも違っていた。そして僕がそのあとに知ったいかなるものの感触とも違っていた。その五本の指と手のひらの中には、そのときの僕が知りたかったものごとが、まるでサンプルケースのように全部ぎっしりと詰め込まれていた。彼女は手を取りあうことによって僕にそれを知らせてくれたのだ。そのような場所がこの現実の世界にちゃんと存在することを。

 僕はその十秒ほどのあいだ、自分が完ぺきな小さな鳥になったような気がした。僕は空を飛んで、風を感じることができた。空の高みから遠くの風景を見ることができた。その事実は僕の息を詰まらせ、胸を震わせた・・・・・。

 村上はもう一つ、上のこととはまったく逆に、ふつうの人が、ただ生きているだけで、悪をなしうる存在であることをはっきりとした言葉にしている。「僕」は高校三年のとき、親密な間柄にあったガールフレンドのイズミを裏切り、イズミの従姉と何十回も関係をもって、イズミの人格を破壊してしまう。

 p66 

 もちろん僕はイズミを損なったのと同時に、自分自身をも損なうことになった。僕は自分自身を深く――僕自身がそのときに感じていたよりもずっと深く――傷つけたのだ。そこから僕はいろんな経験を学んだはずだった。でも何年かが経過してからあらためて振り返ってみると、その体験から学んだのはたった一つの基本的な事実でしかなかった。それは、僕という人間が究極的には悪をなしうるという事実だった。

 僕は誰かに悪をなそうと考えることは一度もなかったが、でも思いや動機がどうあれ、僕は必要に応じて身勝手になり残酷になることができた。ほんとうに大事にしなくてはいけないはずの相手にさえも、僕はもっともらしい理由をつけて、取り返しがつかないくらい決定的に傷つけてしまうことのできる人間だった。

 悪をなす自分の人格に対する自覚がどうあれ、悪は悪である。そして当然の報いとしてこの小説の中で、「僕」はさまざまの厳しい試練にさらされることになる。

村上春樹 『風の歌を聴け』(講談社文庫)

 村上春樹30歳のデビュー作。冒頭や後書きも含めて何度か、村上自身が「最も影響を受けた作家」としてデレク・ハートフィールドという架空の人間が登場する。登場のさせ方が巧妙なので、村上のことをよく知らない人は実在の作家だと思ってしまう。
 それはともかく、ハートフィールドの作品の一つに『火星の井戸』というのがあるそうだ。「レイ・ブラッドベリの出現を暗示するような短編で、ハートフィールドの作品群の中でも異色のものだ」とまことしやかに語られている。

 村上のおもな作品には必ずと言っていいほど深い井戸や地底世界をくぐり抜ける話が出てくる。最新作『騎士団長殺し』でも、内壁が陶器のように緻密にできていて一度落ちたら独力では決して脱出できない井戸が、物語が示すメタファーのキーイメージになっていた。そのいわば、特殊相対論的世界の四番目の次元として、あと三つの空間次元を自在に伸縮させる「時間」の井戸が、大家となった現在とほとんど同じ意味合いをもって、このデビュー作にすでに採用されている。

 p125-6

 これは火星の地表に無数に掘られた底なしの井戸に潜った青年の話である。井戸はおそらく何万年の昔に火星人によって掘られたものであるのは確かだったが、不思議なことにそれらは全部が全部、丁寧に水脈を外して掘られていた。いったい何のために彼らがそんなものを掘ったのかは誰にもわからなかった。実際のところ火星人はその井戸以外に何ひとつ残さなかった。文字も住居も食器も鉄も墓もロケットも街も自動販売機も、貝殻さえもなかった。井戸だけである。それを文明と呼ぶかどうかは地球人の学者の判断に苦しむところではあったが、確かにその井戸は実にうまく作られていたし、何万年もの歳月を経た後も煉瓦ひとつ崩れてはいなかった。

 もちろん何人かの冒険家や調査隊が井戸に潜った。ロープを携えたものたちはそのあまりの井戸の深さと横穴の長さゆえに引き返さねばならなかったし、ロープを持たぬものは誰ひとりとして戻らなかった。

 ある日、宇宙を彷徨う一人の青年が井戸に潜った。彼は宇宙の広大さに倦み、人知れぬ死をのぞんでいたのだ。下に降りるにつれ、井戸は少しずつ心地よく感じられるようになり、奇妙な力が優しく彼の体を包み始めた。・・・・・・井戸の底に降り、横穴をひたすらに歩き続けた。どれほどの時間歩いたかはわからなかった。時計が止まってしまっていたからだ。・・・・・・そしてある時、彼は突然日の光を感じた。彼は横穴で結ばれた別の井戸をよじ登り、再び地上に出た。

 地上は荒野だった。何かが違っていた。風の匂い、太陽・・・太陽は中空にありながら、まるで夕日のようにオレンジ色の巨大な塊りと化していた。

 「あと25万年で太陽は爆発するよ。パチン・・・OFFさ。25万年、大した時間じゃないがね。」風が彼に向かってそう囁いた。

 彼は聴いた。「太陽はどうしたんだ、一体?」

 「年老いたんだ、死にかけてる。私にも君にもどうしようもないさ。」

 「なぜ急に・・・?」

 「急にじゃないよ。君が井戸を抜ける間に約15億年という歳月がかかったんだよ。」

 

フリーマントル 『別れを告げに来た男』(新潮文庫)

 亡命・スパイ小説の傑作。1983年4月、私がサラリーマンをやめる前後に読んだものの35年ぶりの再読。10年以内にソ連がなくなるとはだれも予想していないときだった。

 主人公アンドレイ・パーヴェルはまだ十分に強大だったソ連の宇宙ロケット開発の絶対的第一人者。そのパーヴェルが突然パリ航空ショーの会場からイギリス大使館に亡命する。
 重要人物が亡命した場合、相手先の政府はその亡命が真実のものか、亡命行動になんらかの隠された意図がないかを事情聴取する。その英政府担当官がドッズ・エィドリアン。エィドリアンはパーヴェルの悠然とした態度の中に強い緊張があるのに気付く。

 実はパーヴェルは、彼より先に亡命した、彼に次ぐ宇宙ロケット開発の権威であり個人的にも親しかったアレクサンドル・ベノヴィッチの滞在先を探り、KGBの指示に従って彼を殺すために「偽亡命」したのだった。パーヴェルがKGBトップの指示に応諾しなければそれまでの地位、最愛の妻との生活、軍にいる息子、音楽家を目指す娘の将来をすべて失ってしまうのだ。

 パーヴェルは若い頃航空大学で身につけた、高度な肉眼による天測技術を持っている。イギリスでの自分の宿泊先、エィドリアンによる事情聴取場所、そしてイギリス政府が会わせてくれたベノヴィッチの滞在先、この3か所で夜の庭に出て星を見るだけで、パーヴェルはベノヴィッチの滞在先の正確な位置を計算することができ、KGBに連絡することができた。

 この「任務」が終わるとパーヴェルはさっさと「亡命中止」を言い出す。イギリス政府のおどろき方は半端ではない。しかし亡命者の権利は国際条約で守られなければならないから、パーヴェルの帰国は阻止できない。かくして「別れを告げに来た男」パーヴェルは帰国後、それまでの地位と家庭のすべてを守ることができた。・・・KGB狙撃部隊がベノヴィッチを滞在先から移動させようとするイギリス政府の車列を襲うのは、パーヴェルが帰国するのとほとんど同時だった。