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ガルシア・マルケス 『予告された殺人の記録』(新潮文庫)

 ガルシア・マルケスははじめて読む。被害者が残忍に切り刻まれた殺人事件だが、その男は殺されて当然の人間だった。犯人も、動機も、場所も、手口も全部が街中の人に知られているという、近代西洋社会ではあまりありえない話が書かれている。
 殺人事件のトレースがこの小説の主題なのではない。酒を飲みすぎてみんなが肝臓肥大になっている南米の小さな街を叙事詩風に淡々と書きながら、薄いもやのようにかかっているカトリック規範意識に名を借りた人々の習俗を、短文を積み重ねてあぶり出す。
 事件で惨殺された男サンティアゴは、かつて町の少女アンヘラを弄んだことのある金持ちの坊ちゃんである。アンヘラはその後美しく成長して、よそ者としてやってきたモダンな都会男の玉の輿に乗る。しかし、初夜のベッドで処女でないことを知られそのまま実家に帰されてしまう。
 大恥をかかされた女の家では、向こう見ずな二人の兄弟が手篭め男サンティアゴを殺すと町中に触れ回り、予告どおりに体中を切り刻んで殺す。「自分たちに後悔することは何もない」と悪びれない兄弟は「男であることが証明され」、当局からも寛大な判決を受けて、離れた街で短い刑期を終える。兄弟の家族も「町中が疲れきっているのに乗じ」、誰にも気づかれることなく町を出て行くことができる。初夜に女を実家に帰した男サンロマンは、事件後、娘時代の妻を犯した男に「何の復讐も出来なかった男」として町中の哀れみを買う。
 しかし初夜に追い返された女アンヘラを犯した男がほんとうにサンティアゴだったかは、作中では明らかではない。アンヘラはじつは本当に愛していた男を庇っただけの可能性が高い。ずっと後年になってもアンヘラは「サンティアゴだったのよ、これ以上頭をめぐらすのはよして」というばかりである。
 その一方で、自身、結婚を望んだわけではなかったアンヘラは、追い返されたその日から逆に、いかにも都会人らしいサンロマンに激しく焦がれていく。十七年間の間に二千通もの手紙を書く。しかしその手紙はサンロマンには届くが、一通も読まれない。その手紙の束を持ってサンロマンがアンヘラをたずねてくるが、このエピソードの行方は示されず、サンロマンとアンヘラの新しい出発があるのかどうかは読者の想像にゆだねられる。
 殺人事件としては謎だらけの話である。後半三分の一から犯人探しの複雑なエンディングが始まるが、ああそうだったのかというサスペンス小説風の結末があるわけではない。因習的な地域社会がサンロマンという都会男に混乱させられる悲劇、サンティアゴは因習社会が破壊されるときの犠牲の羊とも読むことができる。中南米を征服したカトリックヨーロッパと、そこに覆いかぶさっていく近代西洋の葛藤は日本人にはとても難しい・・・・。